こんにちは、領です。
縁起縁滅の法とは、波の性質の方程式です。振動循環することが、存在することの条件です。諸行無常とは、因縁によって起こるこの世の一切は、常に変化し、不変のものはないということです。この世の存在の状態(業)が波のように伝播するということは、諸行無常は、当然の物理現象ということになります。
諸行無常を簡単にいうと、一つの状態に留まれないということです。自分のお気に入りの精神状態、自分のお気に入りの取り巻く状況を維持しようとすることは、地球の自転を止めようとするくらい無謀なものです。
この諸行無常という実感、縁起縁滅の法から逃れるすべはないという実感を目の前にたたきつけられたとき、この世とそこに存在する自分に心底絶望しました。
この世の一切を受け取りたくない、この世から自分を永遠に滅してしまいたい。快と苦が振動し切り離せないのなら、この世の一切は苦しみでしかない。
思考することしか趣味のない私が、ついに絶句し、ただ動いているだけの状態になりました。この状態は、二日間ほどで解きました。一緒に暮らしていた老猫の元気がなくなってしまったからです。そして、私にとっては、悟りの書と呼ぶべき本によって思考内のちりがはらわれて、「空」を領解しました。最後に、神の概念が消えたことは、自分でもドラマチックで、出来過ぎだな、と思ってます。この出来事は、11年前のことです。そのときは、「今までに読んだ本は、すべて要らない」と思ったのですが、それからも、本は読んでます。いろいろ思考してきました。そこで分かったことは、解脱し続ける「自己」というものは、構造的に不可能ということです。
まず、私が理解している解脱という状態は、完全に滅することです。輪廻から解脱し、神仏になるということではありません。さらに、悟りとは、大いなる存在と合一することとしていません。悟りは、仮我と対峙する世界が無になる一瞬のことです。無に至ってあらわになるのが、「自己が存在し観ている」という「私が気付いている」という志向性、意識の起源そのものです。悟りは、自己感そのものだけになる状態です。普通に、人間として生活している、今、使用している自己感です。
私の理解したところによると、悟りを開き、死後に輪廻の輪から解脱し、この世に生まれることはない。このような構造が解脱としています。
最初に、「悟り」という状態について考えてみます。
「悟った人は、自ら悟ったとは言わない」この言葉は、結構有名です。「悟ったなら死んでみせろ」とか・・・。でも、仏陀となったゴータマ・シッダールタは自ら悟ったと宣言し、元修行仲間5人に仏法を説いたとされています。長生きもしています。
悟ったなら、明確に、悟ったことがわかるので、「私は悟りました」と発音することは可能です。正確には、「私は、悟ったとする境地を経験した記憶があります」だと思います。(5歳のころ何回か悟りを経験したが、当時はわかりませんでした。神様がバグったと揶揄して遊んでいました。大人になり、悟りという知識があったので明確にわかりました。)
悟りの境地は、この世の一切が存在しません。つまり、時空は存在しません。時空という幅をもって悟り続けることはできません。悟りのような状態が続くということは不可能です。悟りは、一点での現象です。何も存在しないという思考も存在しない。煩悩が滅し続けて、時空上に存在することはできません。存在するということは、世界と個人、煩悩が存在します。悟っても、仮我を用い煩悩を持ちます。縁起縁滅の法のシステムから独立自存で存在することはできません。悟りの境地が時空上、近ければ、努力なしに煩悩は急速に薄れます。(別パターンもあると思います)
「悟った人は、自ら悟ったとは言わない」この言葉は、悟りとされる境地において、発音する個人も時空も存在しないという意味になるのかと思います。
次に、「解脱」について考えてみます。
生々死々輪廻転生する此岸から不生不滅不死なる涅槃の境地である彼岸に至ることが解脱としたとき、それは不可能です。
何が解脱するのか?特定の個人が解脱するとしたとき、その構造は不可能です。
個人のものとしていた思考感情行動、自己感を自分のものだと思っている思考や対峙する世界が、潜在し無になる地点が存在するだけです。仮我は消えますが、意識の起源としての「我」は消えません。この「我」は、無次元の点に割り当てられている情報です。時空は、意識の起源となる「我」が、遍在します。私たちは、ニューロンの関係性の中に「私に気付いている私」(または、自己、我、私、自分、観自在)があらわれると考えますが、「気付いている私」という情報は自分が存在する地点に由来します。最上位の概念となる「私に気付いている私」は、唯一として存在する構造になります。この世の人々は、一人芝居をしていることと同じです。自分と目の前の他者は、同一人物であり、究極の因果応報です。
この唯一であり独存の意識の起源に満たされた時空上を個人の身体思考行動感情が展開します。時空に遍在する「自己」を特定の個人のものとして取り出すことはできません。解脱という救いは存在しません。死や悟りは仮我と仮我の節目であって解脱する何かは存在しません。
この世は、存在することの可能性が尽くされています。平行世界、マルチバースという考えがあります。この二つは、同じことです。つまり、この世界で死んでも、死んでいない世界も可能な限り存在します。どの世界も、自分が生きている人生です。そして、目の前の他者も全て自分、解脱は、不可能となると・・・。
私は、勝手知ったる、今のこの生を生きるしかないという判断に至りました。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます