こんにちは、領です。
私の著書について書きます。Amazonで出版している電子書籍で、タイトルは『「神の概念」の消滅』です。
神だけでなく、思考する私という存在そのものが消滅するまでの過程を書きました。
以下は、内容紹介です。
認識する私
「認識する私」を認識する私
「「認識する私」を認識する私」を認識する私
「「「認識する私」を認識する私」を認識する私」を認識する私
「「「「認識する私」を認識する私」を認識する私」を認識する私」を認識する私
自分について認識するとき、その認識している自分についてさらに認識するという構造があります。自分の視点が無限に後退してしまう。この構造を追いかけ続けると苦しくなり、神にバトンタッチして終了するという遊びをよくしていました。
ここに出てくる神とは、5歳のころ、自分で勝手に設定した神で、この世のシステムの外側にいて、現在過去未来、全ての展開を知る存在のことです。
小学生のころに、この遊びは忘れてしまいます。
29歳の時、この遊びを思い出すことになります。無限後退する認識の正体を理解したからです。正体を探していたわけではなく、私が考えていたことは、全ての人が一秒も苦を感じないでいられるための思考は存在するかという問いでした。
考え続けて、思考することの臨界点に達したとき、神に出会いました。そして、これが神なら私の設定する神は存在しないと確信した瞬間、個人的私と世界が衝撃とともに消滅し、普遍的私の状態を経験しました。自分を認識する自分という意識の感覚のみの状態、それが普遍的私の状態です。それが認識の起源になります。
無限後退する認識が、同じ情報を唯一として圧縮して存在する構造になります。「認識する私」を「認識する私」を「認識する私」・・・同じ情報は、唯一として存在できます。
「認識する私」という情報は、最高次の概念なので唯一として存在し、時空に遍在します。
自分を認識する自分、この体験の蓄積で、個人的私が消滅し普遍的私を体験します。自分が認識しているという感覚は、この普遍的私が、全ての存在に共有されて存在するから存在します。全ての思考に不可分に存在します。このことから、現在過去未来、全ての人物は、同一人物と言えます。唯一独存の自己意識が全ての存在に共有されています。たった今、全ての今に共有されています。この世の一生のみが自分ではなく、全ての一生を、今、自分のものとして経験しています。
個人的私が消滅した普遍的私の状態では、全てが今、存在しているので重なり合って打ち消しあって何も存在しません。このように思考することすら存在しません。この状態に、誰が・いつと、問うことは無意味となります。至るべき最終地点でもないです。
この世の存在の方程式は波の性質を持ち、波の性質故に存在は、重なり合って打ち消し合い無に潜在することができます。
干渉する波に高さゼロの地点は数式に従って存在するように個人的自己の消滅は存在します。自己消滅はそういうありふれた循環の一部です。
思考は、閾値で全存在が相依相関して存在しています。これは、数式に従うので、自由意思は存在しないです。
ここまでの思考は、全てと関係しあって存在し、何にも依らず独立して存在する真実ではありえません。
思考は、個人の存在位置の問題となります。ここまでの思考とそれを否定する思考は対等であり優劣真偽は、永遠に確定しません。
全ての存在が自分だと、科学的に示すことは可能だと思います。手がかりは、現実の人間で囚人ゲームを行った実験において、現実の人間が当然原理に反する選択を行うという結果がでて、それを量子力学で説明できたということにあると思う。さらには、万物の理論の探求により意識の起源は、唯一しか考えられないという結論に至ると思います。
もし「全ての存在が自分」という思考に人々が受容的になる期間に入ったとしても、拒否し、消滅する事態の展開は訪れる。世界の構造は、拒否したい現実と、受容したい現実が同じ強度で存在するように展開します。存在することの条件は、振動することだからです。
個人的私が消滅し、普遍的私を体験するまでの思考空間の過程を書きました。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます