こんにちは、領です。
やっと地域の役員の1番大きな仕事が終わって、ほっとしています。人に指示したり、人前に出ることが大の苦手な私ですがなんとかなりました。前は、人の中に所属しなければならないとき、10分に1回は心臓がギュッとしていました。今は少し慣れました。
やっと本を読んだり好きなことができる
この本を読んで思ったことを書きます。先ずは、引用です。
P44 「クオリアは、議論することが難しい概念である。しばしば、意識についての意見のやりとりの中で、「クオリア」を定義することを求められることがある。どんな定義を与えたとしても、その問いを発した人が満足することは少ない。
なぜならば、クオリアは、それについての認知的な理解、すなわち「メタ認知」(metacognition)を持つ人にとっては、これ以上ないというくらいに「自明」なことだからだ。一方、クオリアについてのメタ認知をまだ持たない人は、それをいくら説明されてもわからない。
茂木健一郎による2013年の論文によって、クオリアの理解については、個人差が大きいことがわかっている。また、年齢を重ねるとともに、徐々にメタ認知が増大する傾向にあることもわかっている。」
確かに、メタ認識の度合いは個人差が大きいと思います。私は、「人は、私が思っているほど人ではない」と思ったことがあります。前後三日の認識範囲で生きてる人もいる。自己の抱える矛盾にまったく関心が無い。あまり人生を操作しようとしていない。思考の両極を見てどんな思考を持つか選ぶことをしない。そんなことを思いつつも私は私でダメダメ人間です。
結局、縁起縁滅とは振動することが存在の条件で、思考を操作することは限界があり、操作を強めるほどその思考を反転させる作用が厳しく作用します。自然に思うままに生きるのが安全です。「自然に思うままに生きるのが安全」この思考にも留まれないように思考は展開します。
縁起縁滅とは万物の理論のことで、どんな思考も数式に従って展開しているので、メタ認知の能力に、本質的に自己責任は存在しません。自己責任という思考は存在します。
メタ認識について考えたとき、レオナルド・ダ・ヴィンチと太田光さんのことが思考に浮かびました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、「大衆は飯食う袋だ」と、このようなことを書き残しています。これを読んだとき、なんてことを言う人なんだとドン引きです。
ところで、私がこの世で一番好きな絵は、ヴェロッキオ工房〈レオナルド・ダ・ヴィンチ?〉《キリストの洗礼》の天使の習作です。2012年のレオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想という展覧会で見ました。もちろん画集も買いました。P39に載っています。宝物です。レオナルド・ダ・ヴィンチの線画が好きです。
太田光さんは、テレビでの発言で2回ドン引きしたことがあります。なんてことを言うんだ!です。でも太田さんの著作から見える思考の型は興味深いです。
『三三七拍子』P70、以下引用・中略有り
「見慣れている顔のハズなのに、「誰だコイツ」という感じになる。不思議な感じだ。鏡を見ながら「何でコイツはここにいて、こっちを見ているんだろう」と思ったりする。
その時に「誰だコイツ」と感じているのは、実は本当に、私ではない”誰か”で、私自身は、その”誰か”の仮の姿であるとか。
あるいは、私は、もっと大きい”何か”の一部で、「誰だコイツ」と感じているのは、その、もっと大きい”何か”であるとか。
何が解るのか解らないが、何かが解るような気がする。
何が解るのか、解らないが、そのヒントによって、もう少しで、何かが解るような気になる事がある。そのときの感覚は、もう少しで、夢から覚めるときの感覚に近い。
引用終わり
太田さんの本にどうやって出会ったかは、忘れてしまいました。『パラレルな世紀への飛躍』の表紙がかわいかったからかもしれません。自分の出会ったことのない思考がいっぱい書かれていました。
メタ認知能力についてですが、能力の高い低いで、優劣を決めるのはちょっと違うなと思います。富士山の山頂の砂粒が裾野の砂粒を低いと思うのって目茶苦茶です。裾野があって山頂が存在します。次の噴火で裾野に飛ばされるのは山頂の砂粒です。メタ認知の能力の高い低いは循環振動しています。全ての存在は相依祖関して存在し、閾値でやりとりしています。メタ認知の低い部分が存在し高い部分が存在します。これも縁起縁滅の法の性質です。
メタ認知の極限が悟りです。全知の状態ですが全てが打ち消し合って何も存在しないので無次元の点です。無次元の点には、最上位の概念の「私」が割り当てられているので、メタ認知の極限では、むき出しの「私」しか存在しません。
最上位の概念の「私」は時空に遍在し、全ての存在に共有されています。この構造は、全ての人が同一人物ということです。
無次元の点に割り当てられた「私」という情報が、意識の起源です。『「私とは何か?」と問うことに気付いている私とは何か?』という問いの答えです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます