私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

読書18 『仏教思想のゼロポイント「悟り」とは何か 魚川祐司』その1

2020年07月19日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』

この本を読んで、浮かんだ思考を書いていきたいと思います。浮かんだ思考なのでこの本の内容そのものではありません。

私は、仏教にお葬式のイメージは、あまり持っていませんでした。修行して煩悩を滅し悟りに至るというイメージです。私がTVで見たことのあるイメージです。実際に悟りというものを理解したとき、悟りは普遍的な物理現象としてあるんだと思いました。
なので涅槃を実体視することが本来の仏教ではないという言説がなかなか理解できませんでした。ある一冊の本を40回読んだとき、やっと、この本は、私が思うところの悟りを悟りとはしていなくて、縁起の知覚を悟りとしているんだと理解できました。涅槃の知覚を悟りとしていない仏教徒が存在することに、とてつもなく驚きました。そこら辺は、ビッグクランチとビッグリップのような違いかなとイメージしました。強引な例えでは、コイルを縮めて厚さゼロにするか、コイルを伸ばして幅ゼロにするか、極限でゼロに至ることは同じと言うことです。マルチバースと多世界解釈の方程式が同じものだったとか、ビッグクランチとビッグリップが同じ方程式の解だとか、どっちが仏陀の正理かと、反目しなくて大丈夫です。

涅槃に至るためには渇愛の滅尽が必要という言葉の並びで思うことを書きます。渇愛は苦に縛り付けている原因とされますが、私は、直接の苦の原因ではないなと思いました。渇愛があってもなくても、この世の快苦は±0で存在します。渇愛が止まることにより、相依性、縁起を如実知見します。以前、投稿した記事のカルマン渦の話のことです。カルマン渦をかき回すのが渇愛です。

サインウェーブはきちんと振動しています。この波がビヨーンと無限に伸びて行ってしまえば、死です。そうはならないように死なないように、存在を維持するように世界と自分が展開します。基本的に死に至らないように展開するので、未来に希望を持って生きることが出来ます。基本的に何かを諦めて、けなげに生きていきます。この世が存在しない方がいいという思考の一歩手前で反転します。渇愛は維持されます。ただ、善とされるものだけを極限まで追求するとその反作用は、酷いものになります。死を持って反作用となります。ほとんどの人はそこまで行かないので、この世を厭うまでは行きません。快苦が±0ということの意味は、その快が存在しないで良いほどの苦が存在すると言うことです。これは、一切皆空です。

私は、努力と思考でなんとかなると思って、善とされるものを維持し続け、結果、無常を眼前に叩きつけられ、渇愛というものを手放しました。渇愛がない状態とは、現象を観ているだけという状態です。機械のカメラです。そうすると相依性と縁起が如実知見します。縁起の恐ろしさを確認します。

快の受容が何をもたらしたのか。自然からの過剰で急激な豊かさの享受が何をもたらしたのか。科学技術の発展が何をもたらしたのか。医療の過剰が何をもたらしたのか。人と人の過密な関係性が何をもたらしたのか。宗教の救いが何をもたらしたのか。より良い世界にすると、より悪いことが起きます。どっちが原因と言うことではなく振動循環する構造です。この世に素晴らしいものだけを残すことはできません。常に発展だけを享受することはできません。過剰な発展は。手厳しい反作用が生じます。文明を壊すほどです。精神レベルの話だけではなく、世界に的確に何かが起きることで、過剰な何かは変化を強いられます。これは、善因善果悪因悪果は理解しやすいですが、善因悪果悪因善果という見方もあります。

この段階では、縁起はなんとなく存在するというレベルを超えているなあという感じでした。私の場合は、涅槃の知覚を持って、相依相関、縁起、無我が確信になります。涅槃とは何かという問いはそれほど重要ではないと思います。涅槃に時空は、存在しません。私は、時空内の存在です。この世に存在する場合、縁起の如実知見が私にとっては重要です。すぐ常(じょう)を求めて過剰な状態に陥りやすい性格です。そして、今、自分に宿っている自己感という、自分が存在し観ているという志向性は、唯一として存在し、全ての人が同一人物だという理解です。

テーラワーダ仏教では、涅槃が常であり楽であるとは語っても、それが「我」であるとは消して言わないということですが、仏教の知識ゼロで五蘊の読み方も意味も分からない状態の私が、涅槃の知覚によって最初に出た言葉は、「私は、私だったんだ」です。解説すると「個人的な私という志向性の起源は、普遍的な私によるものだったんだ」ということです。

ただ、これを真の自己と名づけ実在としてしまうことはできないと最近思いました。そうすると真の自己同様、涅槃の実態視、涅槃は楽、解脱知見、解脱者とは○○だ、などの概念も、顛倒夢想の一覧の中に載っていると思いました。
悟りという“あの物理的状態”に対して思考することは無駄な事だったりします。無駄だと考えることすら・・・。涅槃は業の解消の一点であって、渇愛や煩悩がない状態を時空ないに維持することはできません。涅槃はこの世に生きる人にとって最重要ではないです。ここに書かれている文章全てが顛倒夢想の一覧に載っています。載っています、と突っ込むことも載っています、突っ込みの突っ込みも・・・以下無限。永遠に突っ込み続けるか、無記が便利です。顛倒夢想の一覧表は、分別の相の一覧表と表現しても同じです。

パソコンがフリーズしないためのシステムがあるように、「全ては自分」という思考は使えると思います。これを知ることが喜びではなく、ただの常識になるといいなあと思います。

なんとなく思いついたこと。如実知見とは、この世を縁起の次元で観ることで、マクロな量子効果を持つ。いわゆる、マクロな量子効果が起きるのはシステムが非常にきれいな秩序を持っているとき、という話です。観測という現象が波動関数を収縮させている。という思考があります。私としては多世界解釈が好きです。何が言いたいかというと、観測が収縮と逆の作用をするということです。構造としては、もっと的確な言い方があると思います。今は、書くだけ書いてしまいます。観測が統一に向かう。観測が涅槃に至らせる。こんなことを考えました。観測が一つの事象を確定するだけではなく、観測が全てを重ね合わせるということです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

 


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