こんにちは、領です。
私の著書について書きます。Amazonで出版している電子書籍で、タイトルは『般若心経 この世の一切は数学的であり 縁起縁滅の法は、万物の理論そのもの』です。
以下は、内容紹介です。
「私とは何か?」「意識の起源とは何か?」「悟りとは何か?」これらの問いの答えは、同じものです。
「私」について如実に明確にハッキリと知ることができれば、理解することができます。
「私」以外に何も存在しない状態、「私」という気付きのみの状態を知ることです。
般若心経の冒頭の「観自在菩薩」とは、「観自在」を領解した存在、という意味が込められていると思っています。
「観自在」とは、「観ている自分が存在する」と解釈し、自己感のことであって、確かに自分がこの世界に対し存在し感覚器官、思考、行動、感情を自分のものとしている意志のことです。「観自在」とは、私に気付いている私のことです。
この「観自在」という意志が、「私とは何か?」と問う私に気づきを付与します。意識の起源そのものです。
悟りとは、「観自在」そのものを如実に知る体験のことです。悟りとは、「観自在」という情報以外何も存在しない状態を体験することです。
般若心経との出会いとその後の展開を考えると、私という存在は、宗教的なことを思考するだけの装置だと感じてしまいます。幼い頃の記憶は、無限後退してしまう自己の認識で遊んだり、細胞の中には全宇宙が存在し、その宇宙に存在する人間の細胞の中に全宇宙が存在し・・・と、無限入れ子状の思考遊びが好きでした。
神様と対話する遊びも、結構していました。このような状態は、小学校1年生まで続きました。
勉強、運動、コミニュケーション能力、どれも平均をかなり下回るタイプですが、イメージで思考することは得意でした。
大学を卒業し、絵を描くことが好きだったので、就職はしないで漫画家を目指すことにしました。
かなり自分勝手な選択をしていますね。今思えば、全く向いていないと思います。
当時の自分には、就職しなさいと言いたいです。収入を得ながら好きなことしなさいと・・・。
在学中に何の準備もしていないし、やる気はあるのかと問い詰めたいですね。
伝えたい何か、萌えキャラ、萌えシチュエーション、萌え世界観は特になく、好きな漫画家も好きな漫画もないし、漫画を普段読まない。尊敬する偉人もいない。世界に対する興味が薄い・・・根性も体力も無い。
私の興味は、人という存在の理不尽さ、自己矛盾に目を向けないこと、人は思っているほど人ではない、と思考することです。
そして、次のような問いを持つようになります。
「全ての人が一秒も苦しみを感じないための思考は、存在するのか?」
この方向性で漫画を描くことはありませんでした。薄味で意味不明な恋愛漫画を描こうとしていました。
私には、「私は、この世の邪魔者」という思考が、いつも頭にあって人の輪に入ることができません。
漫画家という冠によって、少しはこの世界に存在してもいいと、自分に許可できると思いました。
漫画家になることがゴールであり、漫画を描く熱意は持っていなかったと思います。
漫画家を目指すことを言い訳に、読書ばかりしていました。サイエンス~オカルトまで気になる本は、全て読みました。
漫画は、少し描いただけで、もの凄く消耗し、本当に描けなくて描けなくて・・・。
漫画家になりたいと焦りばかり募り、だんだん体調は落ち、呼吸すること、歩くこともままならなくなり、このままでは死んでしまうかもしれないと思ったとき、漫画家という「世界に帰属できる」という象徴を手放しました。
私の師匠が、「今のこのままの何の冠もない私でいい」と示していてくれたことに気付きました。
師匠は、夜中に私と歩く練習をしてくれたり、髪の毛の抜け落ちた私を支えてくれました。パニック発作は、大丈夫だと思えるまでに二年かかりました。
漫画家を諦めたころ、なんとなく般若心経を聴きました。
お経を初めて聴いたのは、中学生の頃です。近所に引っ越してきた人の家から祈祷なのか、お経を大音声であげているのを聴きました。実際に、宗教というものを、疑いもせず信じている人がいるということに、衝撃を受けるとともに、恐怖感を持ちました。
私は、小さい頃から神と対話する遊びはしていたけれど、信仰心のようなものは持っていませんでした。
実家に仏壇や神棚はなくて、両親の人間性的にも神への信仰心は全くないと思います。祈祷という形で神仏の信仰を周囲に見せてしまうことに仰天したのです。
大人になって、般若心経を聴いてみると、恐怖感はなく、素直にかっこいいと思いました。
興味の対象であるサイエンス~オカルトに仏教らしい仏教は入っていませんでした。
「世界がない」、「チャクラ」ここら辺の内容が、書かれたものは読んでいました。
私が「般若心経ってかっこいいね」とつぶやくのを聞いた師匠が、般若心経の解説本を買ってきました。
その本で、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)が実在の人物だと知りました。仏陀は、神話の登場人物のような存在かと思っていました。「悟り」に対しては、私は何の関わりも無いだろうと思っていました。
一応、一読したものの難しいので本棚にしまいこみました。
真言の部分は覚えやすかったので、なんとなく唱えて遊んでいました。
そんなある日、五蘊皆空というものを理解しました。そのとき、
「般若心経ってそういう意味だったんだ」
「でもあんなか書かれかたじゃわからないよ」
「高学歴でも教え上手ではないことがあるのと同じかな」
「頭の悪い私の方がわかりやすく説明できるかもしれない」と思いました。
やっと、私に書きたいことができました。実際は、一行文章を書くのも大変でした。
現在、日本において、悟りはオカルトの範疇だと思います。
しかし、悟りはオカルトではない。この世に数学的でないものは、存在しません。
悟りは、サイエンスの範疇になります。
諸行無常、縁起縁滅、諸法無我、空は、数学的に説明することができます。
「悟りとは何か?」ある程度大人なら、最短20秒で理解できます。
その説明を、誰かに試みたことはありません。「悟り」について話すことができる誰かが一人もいないのです。寂しいですね。
宗教が大嫌いな師匠と宗教っぽい話はできません。私にとって「悟り」は、宗教ではなく物理です。
悟りとは、とても簡単なこと、「観自在」という情報のみの状態を如実に知ることです。
「観自在」とは、観ている自己が存在する意志のことです。
何らかの偉大な存在が観ているわけではなくて、観ているという情報が存在するだけです。これは、大事なポイントです。
悟りとは、この世の一切が消滅し、「観ている自己が存在する」という情報のみの状態になることです。
縁起縁滅の法は、波の性質を持つため、重ね合わさって潜在し、一見、無の状態をとることができます。
それがこの世の一切が消滅する境地のことです。自己消滅の地点のことになります。
自己としていたものが消えると、「観ている自己が存在する」という自己の起源の状態を知ることになります。
般若心経は「観自在」という不動の焦点を明らかにするとどうなるのかということを「空」で解いたものです。
この本では、般若心経を解説していきます。
私が、自己消滅までの、思考空間の過程を書いたものは、『「神の概念」の消滅』という本に書きました。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます
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