こんにちは、領です。
前回の記事で、「自分としていた、感覚情報、精神作用、身体、そして、対峙する世界、これらの一切が重ね合わさり潜在し、無になる。」と書きました。今日は、この文章について説明をしようと思います。
一般的に、「空」は、実態のないこと、変化し続けるものに固定的な実態はない、状態や相互の関係しか存在しない、などなど見かけます。この説明だと縁起や諸行無常の説明とかぶります。縁起、諸行無常、諸法無我を包括する概念が「空」ということになります。しかし、実態がないといわれても何が何だか理解できないと思います。
私自身は、「空」について、無次元の点と考えています。この考えもよく見かけますよね。
「空」=「潜在して無」と考えたとき、般若心経の解釈は、納得しやすいと思います。「自分としていた、感覚情報、精神作用、身体、そして、対峙する世界、これらの一切が重ね合わさり潜在し、無になる。」という一文は、般若心経の「五蘊皆空」のことです。五蘊が重ね合わさり潜在して無になることが「空」です。
「潜在して」ここがポイントです。縁起縁滅の法は、波の性質をもちます。同じ高さの相反する波が重なり合うと一瞬、高さゼロになってすれ違います。お互いの波自体は保存されているので、すれ違えば、また、波は存在し伝わっていきます。この世の一切は、無の状態から対生成し対消滅します。すべてを重ね合わせれば、無になります。潜在して無ということの意味は、重ね合わさって潜在して無ということです。
この「潜在して無」の境地は、この世の一切を一度に観ることであり、全知でありながら何も存在しません。この「何も存在しない」という思考すら存在しない境地が「悟り」です。足し合わせればゼロになる、相反する無限であれば、全知は可能なのだと思います。
そして、この「無次元の点」に「自己が存在し、観ている」という情報が、割り当てられています。般若心経の観自在菩薩は、意識の起源としての「自己が存在し、観ている」という意味が込められているのではないかと、私は、思います。
無次元の点に割り当てられているということは、「自己が存在し、観ている」という情報は、時空に遍在しているということです。「自己が存在し、観ている」を簡単に「私」と表現すると、私たちは「私」の海の中を泳いでるようなイメージです。
「私は、どこから来て、どこへ向かうのか?」このちょっと言ってみたくなるフレーズの答えは、「私」は、ここからそこへと移動するものではなく、不生不滅不動の情報となります。「私」とは、これ以上の情報が存在しない、最上位の概念なので、一番シンプルな無次元の点に割り当てられています。最上位概念は、時空に遍在する構造を持ちます。この世の全ての人は、唯一独存(尊)の「私」を使用しています。今、地球上には何十億と人がいます。過去未来、たくさんの人が存在します。その全ては、同一人物と捉えることができます。最上位の情報は、このような構造を持ちます。
目の前の他者を、自分が生きているということは、究極の因果応報です。
すべての人が、自分ということが数学的に示唆されたとき、平和になるでしょうか?答えは、「平和には、ならない」です。
縁起縁滅は、波の性質の方程式です。存在することの条件は、振動することです。この世は、引き寄せたい要素と引き離したい要素、つまり、快と苦の両極に振動しなければ、存在できないのです。それが諸行無常ということです。悟っても、無に潜在する一瞬を知るだけで、もともと持っていた性格は、保存されます。つまり、すごい人になったりしません。
死や悟りは、方程式どおりにあらわれる、存在と存在の節目のようなものです。解脱も自由意志も存在しません。対で生成消滅するものに絶対の真理は、存在しません。そのような思考の形が方程式どおりに、存在しているだけです。
おまけの考え事
以前、縁起について考えていたとき、「縁起」が存在するなら、「縁滅」も存在しなければならないと思ったので、検索してみました。そうしたら「縁滅」という言葉がありました!
「縁起は、縁起縁滅の略」だそうです。ここは、略してほしくない!!!と声を大にして言いたいです。
縁起縁滅を略すことは、磁石のNS極を分離するようなものです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます(*^-^*)
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