こんにちは、領です。
最近の感染症の動きを見ていて思うこと。
何故?どうして?腑に落ちない。不自然。違和感。不思議。不気味。矛盾。理解に苦しむ。異常と思わないことが異常。胡散臭い。科学的ではない態度は、むしろお決まりのパターン。
同じ世界を見ているのに全く逆の意見が出てくる。
意外と安易に打つ人が多い。
囚人ゲームのことを考えました。
実際の人間で囚人ゲームを行ったとき、人々の行動の選択は意外な結果になった。
この行動の選択が量子力学で説明することができた。
今の時期に、テレビでプロパガンダについて放送しているのを見ました。「安心安全」「因果関係は不明」という言葉が印象に残りました。
他には、群集心理について放送しているのを見ました。
あと、国防婦人会についての番組内で「徹底的軍国主義教育を我が思想の如く振る舞い」という言葉が印象に残りました。
あと、『ウォーキングデッド』のことも考えました。シーズン8まで見ました。
人対ゾンビ
ではなく
人対人、という構造を思いました。
物質はある条件下で特異な振る舞いを見せます。
大勢の人が、危機感や不安感にさらされると普段の個人とは違った振る舞いを見せる。
実相(空相)から考えてみると。
何故?どうして?の答えは、『人』には、人が思うような独立自存で関係し合うような意思が存在しないということです。
『人』を現わす五蘊は、縁起縁滅の法(万物の理論)に従って存在している。
『人』を現わす五蘊は、決定論で存在する。
決定論ということは、
『人』を現わす五蘊は、強制で存在する。
そうでない自分を選べたわけではない。
選べたはずなのに選ばなかったわけではない。
打つ打たない、同調圧力をかけるかけない、経口薬を買う買わない、色々な思考が数式に従うだけです。
世界の偉い人は、量子力学を使って『人』の思考パターンの効果的な誘導を研究していたりして。単純に不安を煽ればいいということで研究の必要は無いかもしれません。
『人』を現わす五蘊が、数式に従うことが明確になるとき、『観(気づき)』についても科学的な理解が進むかもしれません。
五蘊は気づきの光に照らされないと無に等しい。
その光源が唯一という構造。
気づきのみが独立自存。
「私の気づき」ではなく、ただの「気づき」です。
唯一の「気づき」が『人』を現わす五蘊に存在します。
この構造は「たった今、全ての人が自分」ということです。
この世の全ての五蘊が自分のものという(表層的ですがそういう)理解ができます。
「だからどう生きるか?」の答えは、各個人のそのとき持ちうる好み次第にしか成りません。
実相の理を知っても、常に安らぎ何の煩いもなく自由に生きることは不可能です。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます
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