こんにちは、領です。
神という世界観を超えることは難しい。
真の自己という世界観を超えることは難しい。
意識という世界観を超えることは難しい。
人間中心という世界観を超えることは難しい。
人間という世界観を超えることは難しい。
このように表現すると、これらの世界観を超えなければいけないような気になります。
しかし、縁起縁滅の法によって存在を現わすものに絶対の真理は存在しません。神という概念の場において「神は存在する~神は存在しない」という思考は、相依相関して存在し、片方だけでは存在できません。思考や概念、感情は振動循環し一つの位置に確定しません。
人間という世界観を超えるということを、人は悟りと名づけています。悟りとは、価値があると思っている思考の全てが無に潜在する境地です。
以前、悟りはゲームオーバーの地点と書きました。個としての人間という魔法が解かれる地点です。自己を観察するということの蓄積で悟りに至ります。
学習の成長曲線のように、自己のメタ認知の能力はじりじりと時間をかけてほんの少しずつ上昇し、あるポイントを超えると一気にメタ認知の極限に至ります。
この構造は、この世に存在する個人としての人間という魔法が解かれにくいように作用していると考えることもできます。簡単には個の魔法は解けない。簡単には人間という世界観を超えないようなバランスでこの世は展開している。この世に存在する者として悟りに至りにくい構造です。かといって、誰かが意志を持って悟りに至らないように保護しているわけではなくて、縁起縁滅の法の数式の性質です。
縁起縁滅の法は、人間の存在の仕方を表すために用意されたものではなく、縁起縁滅の法の展開の中に人間という構造が現われただけです。
無次元の点が縁起縁滅の法によって、素粒子、原子、分子、RNA、DNA、原核生物、真核生物、多細胞生物・・・魚類、両生類、哺乳類、人間・・・と、展開します。人間の観察するという行為の行き着く先は無次元の点です。無次元の点が高次化して行き着く先が無次元の点となりループします。
生きる意味、魂の浄化、霊性の進化、世界を創造しているのはあなただ、悟りが最上の道だ、真の自己に目覚めなければならない、いくら知識を積み上げても真の智慧にはならない、などなどの思考も縁起縁滅の法に従って存在します。つい価値があるとして思考してしまう事がありますが、無次元の点の関係性の一塊です。
水には極性があり、二酸化炭素には極性がない。塩は水に溶けるとナトリウムイオンと塩素イオンになる。人間という一塊も他者をどう振る舞わせるかは物理的に決定されている。人に独立自存の能動的、自律的な意志があると思考することは、磁石のS極とS極が反発する作用に自律的な意志が存在すると思考することと同じです。
無次元の点に備わった「観」という物理作用は、無次元の点のあらゆる組み合わせに対して今にまとめる構造を持ちます。「観」という物理作用が存在しなければ。私たち人間は、主観的体験を持たずに喜怒哀楽を持つ、哲学ゾンビになります。
この世の全ては、無次元の点の関係によって存在し、相依相関しなければ存在できません。つまり、より価値のある思考は存在しません。五蘊皆空の地点と五蘊が展開している地点は、どちらも価値が同じというか、どちらも価値そのものが存在し無いというか・・・。価値は、思考であって縁起縁滅の法により展開される内のものになります。救う救われるという価値観も同じです。
数式に従って展開する無次元の点の関係性に価値を問うことはできませんが、日常の範囲では、縁起縁滅の法によって展開する関係性の中に存在するので、気に入った価値観を大切にします。それでいて命に関わるほど極端にこだわることはしません。
ふと思ったこと
① 人の思考や概念は、抽象度が上がるほど共有されて存在します。思考や概念が共有されているから少しの学習で、例えば猫という存在を理解できる。AIは、何万回も学習して猫という存在に猫と割り当てることができる。人は共有しているからノイズに強い。
② 自己をカメラのようにただ観察するという行為は、「観」という物理作用のみの状態の模倣であって、最上位の「観」という中心から観察するということであって、縁起縁滅の法が見えてきます。これは、太陽を中心に惑星の動きを観察すると法則が理解しやすいことに通じると思いました。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます
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