画像は先週訪れた岐阜の夕空
夕方、ふと観たTVで採り上げていた「孤独死」
最近は徐々に50代、40代と若年化してきて、全体では年間3万人。
「関係」の希薄化。
家族との関係、地域との関係などなど…
この国に生きる大多数の人は、多分、今自分を取り巻く「関係」で
息苦しい閉塞感や圧迫感を感じてるんじゃないかな?
できれば、この「関係」から逃げ出したい!って思っている人も多いと思います。
でも、この孤独死とされた3万人の人は
あらゆる「関係」から孤立してしまった…
きっと今のこの国には、それも当然のように存在する。
人間は1人では生きていけない、イロイロな人に支えられ、
また支える側になり、関係しあって生きている。
本当かよ?
…って、思ってたワタシ。
昔はそうだったと思う。
「村八分」っていうのがありました。
火事と葬式以外は、無視されるという、日本的な制裁。
でも今、孤独死された方はまさに村八分みたいな状態。
もちろん、周りからそうされたのか、本人が人との関係を絶ったのかは分かりません。
本人が望んで選んだ道かも知れません。
それは分からない。
でも、今のこの国には、悪意なき村八分が発生してる。
そして今日、いろいろな人との人間関係を保っているワタシだって、
この後は分からない。
「あちら」と「こちら」と、何の境目もない。
今日のあなたは、明日のわたし。
年に3万人が自殺し、3万人が孤独死する、この国。
今、この国でどう生きるべきか。
自分が何を求めているのか。何をなしたいのか。
私は今、会社勤めの傍らで、
ヨガ講師やレイキマスターなんてことをやってます。
ヨガもレイキも、より良き人生を歩む為のツールです。
『安心立命』
安心した心持の元、自分の使命、なすべきことを知る、成す人生。
それを求める道がヨガであり、レイキです。
そんな毎日の傍らで、『ひとり』で生きている自分も感じています。
人はいろいろな人との支えあい、係わり合いの下で生きている…
そうかもしれません。
でも、今、確かに、その背後に潜んでいる『孤独』いや、『孤立』
それから眼をそらすことは出来ません。
人は起きて半畳、寝て一畳。
最悪でも野垂れ死にするだけ。
それが、ぶっちゃけ私の人生観です。
ただ、その今生の一畳をより学びある、魂の成長のある一畳にしたいだけ。
朝に生まれ 夜に死ぬ
それを毎日繰り返している。
まったく個人的なことです。
孤独でも孤立してても、関わりないことです。
でも、そうではない。
人という生き物はそうではない。
私の学びは続きます。
何のために生きるのか、どう生きるのか。