「やめます」
と、言ったのです。
若い看護婦さんと、少し年配の看護婦
さん。ふたりは唖然とした表情で、わ
たしを見ていました。驚きのあまり、
あるいは、呆れてしまって、声も言葉
も出ないという感じすです。
わたしは彼女たちを残して、手術室か
ら走り出ると、もといた部屋までもど
って、手術着を脱ぎ捨て、そこに置い
てあった旅行鞄のなかから、衣服を取
り出しで、まるで脱走するかのように、
病院から飛び出しました。
大通りまで出て、流しのタクシーを拾
って駅まで行き、そこからは電車に揺
られて、アパートまでもどったのです。
帰り道、少しだけ出血があったけれど、
すぐに止まりました。本当は走ったり
してはいかなかったのだけれど、わたし
の赤ん坊は強かった・・・・・。
ねえ、音羽さん。
その時はたぶんまだ、親指の先くらい
の大きさしかない、頼りない細胞のか
たまりですよ。まるで木の芽のような
小さな儚い生命が、わたしに「生きた
い」と言ったのです。烈しい力で、大
木をなぎ倒すようにして、わたしに
中絶をやめさせたのです。
それが、あなたです。
わたしが身籠っていたのは、音羽さん、
あなたなの。
あなたがわたしに「生まれたい」と
言ったのです。
あなたの力が浅はかな女を、罪深い
人間を、動かしたのよ。あなたが、
わたしを、救ってくれたの。
お願いです。そのことを、どうか
覚えていて。
この手紙の最後に、あなたのお母さん
に対する感謝の言葉を書きたいと思い
ます。
あなたのお母さんは、
出産時の麻酔事故と出血多量で昏睡
状態に陥り、そのまま目覚めなくなっ
たわたしの代わりに、あなたを引き取
り、
順ちゃんと一緒に、おふたり子ど
もとして慈しみ、可愛がり、美しく
聡明な女性に育て上げて下さいました。
あなたのお母さんはこの世にただひ
とり、あなたを育て上げてくれた人
しかいません。そして、あたなたの
お母さんはわたしに、この手紙を書
くことを許してくれました。
この世の中には、奇跡としか思えな
いようなことが、満ちあふれていま
す。素晴らしい奇跡もあれば、悲し
い奇跡もあります。
人はそれらをすべて、受け入れるこ
としか、できないのです。受け入れ、
許し、愛することしか、できない。
わたしがそうであったように、
あなたを、愛することを、やめられ
ないの。
もうじき、夜が明けます。
手術が成功して、もしも歩けるよう
になったなら、わたしはまっさきに、
あなたに会いにいきます。
腕が自由に動かせるようになったら、
まっさきにあなたの躰を抱きしめた
い。口がきけるようになったなら、
わたしがまっさきに呼びたい名前
は、あなたの名前。
音羽さん。
愛しい順ちゃんの娘。
わたしの娘。おとはちゃん。
この手紙を読んだら、あなたの
握りしめている白い小鳥を飛び
立たせて。
わたしの青空に、あなたの小鳥を、
放して。
待っているから。
真っ白な小鳥が、わたしの青空を
飛ぶ日を、待っているから。
今までずうっと待ってきたんだ
もの。
大丈夫、これからも待てる。
あなたを愛しているから。