Nonsection Radical

撮影と本の空間

節分に思う

2011年02月03日 | Weblog
昼食を買いに会社近くのスーパーマーケットに社長と出かけた。
弁当売り場へ行くと太巻きが山と積まれていた。
「恵方巻き」というらしい。
なにやら節分だそうだ。
太巻きは実は大好きで、しかし近頃は結構な値段がするので食べたくても二の足を踏んでいたのだけど、売り場には2本で498円で売っていた。
社長と1本ずつわける事にして買った。

最近は関東でも、もともと関西での「行事」であった節分に太巻きを食べるという事を流行らせているようだが、その薦めによってだんだんとワケもわからず節分に太巻きを食べるようになってきた。
それに関して少し危惧するものがある、というのが今日の話題にしたい。
なにしろ帰宅したら夕飯がやはり太巻きで、おまけにイワシの塩焼きと来た。
こんな行事をやったのはこれまで記憶がない。
つまり昔は「我が家では」やらなかったのだ。
それをするようになった。
もちろん信心からではない。
流行っているからだ。

流行っているからには、かならずそこに強制が伴って来るのが日本だ。
こうであらねばならない。
そうしないのは「非常識」だ。
だから「非国民」だ。
そうやって手痛い失敗を繰り返してきた歴史がある。
その歴史さえも、のど元過ぎればなますを吹くというたとえ通り、無自覚に繰り返しては新たな禁忌をつくっては自らを、そして他人を縛って喜んでいる。

みんなで同じ事をするのはこの国では、国民では危険じゃないのか?
そういう思いがある。
なぜなら、へそ曲がりのsatoboなどは、同調しないために毎回手痛い思いをする「被害者」だからだ。
あとになって、熱気が冷めた「最大多数」に対して「小泉をあんなに熱狂的に指示したのは誰なんだよ!」とか「懲りもせずに菅直人に熱狂支持したのは誰だよ!」と反撃しても、狐憑きが落ちたような爽快さで知らぬ存ぜぬとおとぼけする国民性である。
まるでいつかの8月15日の繰り返しである。
その繰り返しの芽を、「恵方巻き」ブームに感じるのだ。
ヤバい方向へ、行く気満々でいる気がするのだ。

ネットの世界でも、上杉某なる人物が記者クラブ制度の自由化を発言すれば、あたかもそれで情報の自由化を手に入れられるがごとくの早とちりで、上杉バンザイを繰り返す人々がいるが、それと堀江モンの時の熱狂とどう違うのかわからない。
問題の本質のスタート地点に立っただけなのに、あかかもそれが目的化したような「バンザイ」騒ぎもある。
そしてまた熱から冷めて、上杉某をスケープゴートにして批判するのだろう。

しきたりや常識を振りかざすようになると危険信号である。
原理主義者になっているのだ。
原理主義者は自らだけが正義と思っている。
偏狭になるのだ。
たいへん厄介である。
おまけに熱狂しやすい。
これまでの歴史で何度提灯行列をした事か。
これらが組合わさった時にヤバいことが起きるのは歴史の繰り返しで予想出来る。
だから恵方巻きを丸かじりなどせずに、切って「美味しいね」とイイながら(しゃべっちゃイカンと「キマリ」があるそうだ)ゆっくり食べればイイのだ。
その方が幸せな時間が過ごせるだろう?
太巻きよりも稲荷の方が好きな人だっている。
サンドイッチを三度に一度食べたってイイ。
自由にすればイイのだ。

縁起をかついていい事があった事など有史以来ない。
コメント (2)
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