Nonsection Radical

撮影と本の空間

面倒くさがり

2015年10月12日 | Weblog
面倒くさがりの一言に尽きるのだけど、何かをする場合に、やっても何の意味もない場合に、それならやる必要などないじゃないかと”常識的”に考えてしまう。
たとえば、何の意味も効果も発展性もない統計調査とか。
それを誰も活かすこともなく、ただ発表させるだけの行為が統計を活かす活動という名目で継続されていくことに、一言「無駄」だと思うのだけど、この調査から何がしかの傾向をつかんで改善に活かすという発想が上にあることは理解できても、そんな集団ではないという”現実”を理解すれば自然と”無駄”だと思うものなのだ。
現状肯定だけでは発展もなく、面白くもないのだけれど、何か活動をしたらそこから新たな発展があるなんて甘くもないと思うんだけど。
そういう”無駄”なことをやらされることになると、非常にテンションが下がり、それでもやって、やはり何も変わることも活かされることもなくスルーされるごとに「バッカみたい」と思ってしまい、つまんないことをしているなぁと自責の念にとらわれる。
そもそも超一流の学問を習得したエリート達が行なうロケット発射とか経済政策とか、プロジェクトとかがとんだ大失敗なんてことがザラにあるのに、シロートがイイ加減な感じで調査して、そこから何か改善点を導き出すなんてことができると思う方がどうかしているよな。
そんなことで改善されるなら、世の中ずっと以前に良くなっているさ。
そんなこともわからないのかねぇと思うから、面倒だなぁという気持ちでいっぱいになるんだよなぁ。

ああ、あと発表することが目的だけのプレゼン資料作りなんてのも全くの無駄だよなぁ。
プレゼンしてどうかするとかの前に、さっさとやってしまえばいいじゃないのさ。
そんなプレゼン誰も役に立つとは思っていないのに、そういう場を設けることが当たり前という風潮に染まっているんだよなぁ。
幼稚園のお遊戯会と一緒だね。



楢葉町の街並み 10
福島県双葉郡楢葉町井出木屋
撮影 2015年9月20日 日曜日 12時50分


八幡山城下の街並み 9
滋賀県近江八幡市新町1丁目,大杉町
撮影 2015年3月21日 土曜日 12時15分
コメント
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