思考実験です。
もし仮に日本全国、津々浦々に赤ちゃんポストができたらどうなるのだろう。都道府県に1、2箇所あったら、どうなるのだろう。現在、熊本の「こうのとりのゆりかご」には、毎年20人くらいの赤ちゃん~乳幼児が預けられている。そこから推測すると、(根拠はないが)100人は預けられるだろう。
この100人はその後どうなるのか。道は二つしかない。母親の下に返されるか、児童相談所を経由して、施設養護ないしは養子縁組か、である。母親の下に返され、そして、母子支援がしっかり行えれば、その母子はいわゆる「人並みの生活」を送ることができるだろう。そこから先は、母子個人の問題であり、それぞれの家庭の人生がある。
だが、もし100人の赤ちゃん~乳幼児が、母に引き取られなければ、施設に行くか、養子縁組先に引き取られるか、のどちらかになる。そこで問題になるのが、日本の養子縁組システムの「あら」だ。「あら」というか、「難関」である。
こんな記事が公開されていた。長いけど、引用する。
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◆養子縁組と混同
わが国で虐待から保護された子供の「行き先」は欧米諸国と大きく異なる。
…故庄司順一教授によれば、欧米にもかつて孤児院があったが、施設の弊害と家庭的養護の重要性が指摘され1970年代に縮小、閉鎖されて里親制度へ転換していった。施設が主体のわが国は例外的だという。
広がらない理由としてキリスト教など文化的背景の違いや、法的に親子になる「養子縁組」と混同されていることが挙げられる。認知度も低く、インターネットで「里親」と検索するとペットの里親ばかりが表示される。「人間以外に里親という言葉を使わないで」と訴える運動さえある。
児童相談所の職員出身で日本社会事業大学の宮島清准教授(52)=ソーシャルワーク=は「里親委託が進まないのは、施設か里親かを決定する児童相談所の態勢が整っていないからだ」と指摘し、こう続けた。
「里親なら施設より整備費もかからず委託費も少なくて済み、何より子供に好ましいと分かっている。だが児童相談所にとって子供を里親へ委託することは、電話連絡と資料送付程度で済む施設へ『送る』ことよりはるかに手間がかかる。親権を持つ実の親も里親だと『子供を取られる』と思い施設を希望する。職員は施設を選びがちになる」
◆対応は十人十色
里親登録する40代の女性は「登録してから2年間、一度も子供と『お見合い』したことがない」という。
「児童相談所の職員からは『実の親が里親委託を簡単に了承しない』と言われるだけ。一方で、親権のある実の親やその愛人の手によって毎週のように子供たちの命が消されている」
心の専門治療が必要な子供を受け入れる「情緒障害児短期治療施設」に勤めた経験を持つ子どもの虹情報研修センターの増沢高研修部長(49)は「施設より里親がいいと誰もが思うし私もそう思う。だが『普通の家』を知らない子供には難しい面もある」と話す。
親から熱湯をかけられた子供は、風呂をものすごく恐れる。逆に「お風呂が唯一の安心の場」という子供もいる。増沢さんは「十人十色で『虐待にはこの対応』とはいかない。里親では手に負えない場合もあり、現実に里親から施設へ行く子供もいる。その子供一人一人を丁寧にみる必要がある」という。
虐待から逃れてきた里親家庭で、里親から虐待される子供もいる。厚生労働省によると平成21年度に全国で9件が報告されている。
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赤ちゃんポスト導入の議論の前に、この「養子縁組」の問題がもっと議論されなければダメなのではないか?! 母親(父親)の責任を全うできない親から赤ちゃんを引き離しても、その赤ちゃんを受け入れる場所がなければ、何もしていないことになる。
施設養護のすべてがダメだとは言わないが、施設養護の限界は欧米では強く指摘されている。施設養護を超える取り組み(SOS子どもの村、母子生活施設、養子縁組)も活発だし、その延長線に「赤ちゃんポスト」がある。
日本では、施設養護に異を唱える論者が極めて少ない(いるにはいるんだけど)。いや、そもそも一般の人は、施設養護の存在自体知らないのではないだろうか。年間、3万3000人くらいの赤ちゃん・子どもが施設に預けられているというのに、全然話題にならない。なったとしても、木村拓哉のドラマくらいなものか。施設を応援する人はたくさんいる。それはそれでとても素晴らしいことだと思うし、タイガーマスク(だっけ?)による物質支援も素敵なことだと思う。
でも、だからといって、施設で子どもが集団で暮らすということを、無条件で認めてよい、ということにはならない。母子(ないしは母に相当する存在)の親密な長い持続的な関係の中でしか、アタッチメント(愛着)は育たない。アタッチメント形成に失敗すれば、その後のその子の人生はかなり辛いものとなるし、自己否定・リストカット・自傷行為・他傷・暴力・人間不信に苦しむことになる。
施設養護を廃止せよ!といったことが言いたいわけではない。どんな形であれ、親密な他者と持続的にかかわり、基地・避難所となる場所が与えられ、安定した(庇護された)空間の中で、赤ちゃん(ないしは子ども)は育つべきである。そのためには、施設養護を最後の砦にしつつも、可能な限り、養子縁組や里親(一時・中期・長期)を普及させていくように、行政も市民も学者も努めていかなければならない。今はそう思う。
大事なことは、すべての子どもに児童手当を与えることではない。子ども同士、子ども間の「物理的・精神的格差」をなくすことが最も重要なのだ。生まれによって、子どもの人生が決められることほど、悲しいことはない。みんなが幸せになるためには、みんなが可能な限り、ある程度の環境の中で育たなければならない。劣悪な環境で育てば、誰だって、人間不信になるし、自己否定をするし、人が信じられなくなるし、リストカットだってしてしまう。幸せな環境で育った人間だけが笑う社会は、決して健全ではないはずだ。
それだけではない。劣悪な環境で育った子どもたちが増えれば増えるほど、社会の治安は悪化する。犯罪の引き金は、お金と愛情だといわれている。愛情を欲して、無差別殺人に走る人たちを考えてほしい(秋葉原の事件の加害者も完璧なまでに人からの愛情に欠乏していた)。人は、誰かに承認され、愛され、大切にされなければ、「すべての人間」が敵に見えてしまうのである。どこにいても、敵はいるし、自分と考えが全く合わない人間はいる。でも、そのときに、「敵もいるけど、味方もいる」というふうにもっていくためには、「絶対的な味方」が必要なのだ。「すべての人間」を敵に見ないためにも、自分のことを徹底的に絶対的に認めてくれる他者が必要なのである。
養子縁組や里親制度は、そうしたリスクを減らし、後の犯罪者や殺人者をなくすためにも、やはり必要不可欠なのではないか。もちろん、養子縁組先での虐待も起こっているわけだから、単純に養子縁組を美化してはならない。養子縁組は誰にでもできることではない。養子縁組が日常的に行なわれるためには、養子縁組が可能な人々を見定め、そうした人々を増やすことが必須である。
話を大きくすれば、日本人全体がもっと賢明にならなければならないし、安易に子どもを産んだり、安易に子どもを捨てたり、安易に子どもを引き取ったりしない「理性(分別・思慮)」が必要であろう。「代理出産」のドラマが放送されているが、その是非を問う前に、親の愛情に欠けた子どもたちがたくさんいる、ということを、われわれはきちんと(もっともっと)認識しなければならない。
いつの時代も、犠牲者は子どもなのだから。子どもには罪はないはずだ。