タニャの体験談
あの頃、まさか自分が二人の子どものいる別居状態の男性に恋するなんて、思ってもいませんでした。私は、全く子どもが欲しいと思ってもいませんでしたし、マジカル30(生物学的時間なんてとんでもない。何も起こってない)のように一線を超えるとも思っていませんでした。私は一度恋に堕ちると、向こう見ずに突き進んでしまうんですよね(それに、その男性がとても素敵だったんです)。
私たちが結ばれるということがはっきりとした後で、私は5歳と8歳の子どもたちと出会いました。二人ともとてもかわいかったです。みんなで、ライン川にハイキングをしに行き、バーベキューをしました。彼が別居して4年が経っていて、私が最初の「正式な」彼女だったので、簡単にできましたね。でも、たいていの子どもたちは親がまた再び一緒になってもらいたいと思うものなので、私はすごい神経質になっていました。私がいるということが、もう二度と親が一緒にならないということの証明になっちゃうじゃないですか。でも、子どもたちは、私が喜びそうなことをさらっとやってくれたんですよね。それには、かなり驚きました。とても素敵な一日になりました。
当然、また将来の元妻となる方とも出会いました。もちろん困難がないわけではありませんでした。最初、私は彼女がそんなに悪い人だとは思いませんでしたが、私とは全然違うタイプの人だなと思いました。が、何度か会う中で、彼女が少し優しすぎるかなと思いました。特に子どもとのやり取りの中で。例えば、子どもに対して過剰に陶酔しているというか。私自身は、申し訳ないですが、そんなにすぐに熱くはならないですね。ああいう大げさな態度ってすごいよそよそしい感じがして。私には、なんか嘘っぽい感じがするんです。
例えば、もし娘が黒い一本の線を絵に描いていて、私がそれをどう思うか、それを私を気に入っているかどうかを娘が知りたいと思ったら、私はそれを素直に言っていますよ。そして、もっとたくさんの色を使って描いたらもっと私は気に入るだろうな、と娘に伝えますね。娘の母親は、興奮して、その黒い線に完全に心奪われたわ、みたいに過剰に言うので、娘は私のリアクションにすごいびっくりしていました。けれど、娘はまた繰り返し挑戦していましたね。娘はすごいクリエイティブなんです。何度か娘が他の線を描くのを見て、やればもっとよくできるんだということが分かりました。
子どもたちと一緒に素敵な週末を過ごした後、元妻の女性とは友人になりました。子どもを引き渡す時に、うしろ髪をひかれたんでしょうね、彼の顔から笑顔が何時間か消えるというシーンもよく見られましたね。根本的には、彼女自身、彼がまた再び戻ってくることを願っていると、私は思いましたね。もしかしたら、単純に、彼女がまだ独りで、彼が幸せになっていることに耐えられなかっただけかもしれません。もちろんこれは推測にすぎませんが、彼女の視点からすれば、十分に理解できることです。彼は、聖なる家族という彼女の夢をぶち壊したんです。でも、誰も、好んで立ち去ろうとは思いませんよね?
当時5歳だった彼の娘が前に電話してきたんです。そして、涙しながら、「パパは無責任だ!」って言ったんです。 いったいどこでそんな言葉を覚えたんでしょうかね? 私はその子に、「その無責任という言葉がどういう意味なのか、知ってるの」、と尋ねました。当然、その意味を知ってはおらず、ただ、なんとなく悪い言葉だということは知っていたようです。私は、いろいろな例え話を使いながら、彼女に、どうして彼が悪くないのかを説明しようと努めました。
「…また君たちの近くに住めるように、パパは仕事を変えて、引っ越したのよ。パパも君たちと離れてとても寂しかったしね。で、引っ越して君たちの近くに住めば、君たちがパパに会いたいと思う時に、いつでもパパと会えるじゃない。それに、毎月、パパは、できる限りのお金を君たちにあげているのよ。君たちが十分に生活できるのはそのためでしょう。屋根のあるお家もあるし、たくさん食べるものもある。パパにはいつでも電話をかけてきてもいいし、いつでもパパを頼ってもいい。パパは君たちと約束をしたら、必ずそれを守るわよ、などなど」
けれど、残念ながら、彼の元妻はきつく陰険にあたってきて、私に嫌がらせをしてきました。私は全く悪いことはしていなかったので、毅然と構えました(Hab-Acht-Stellung)。でも、その後、彼女とはかかわりたくないと思い、彼女との接触を避けました。でも、彼女は、子どもたちを私嫌いにさせようという感じではありませんでした。基本的に、本とかに書いてある様子とは違って、比較的大丈夫でした。でも、それでも、かなり面倒で、たいへんでした。
私たち4人はより頻繁にいろいろとするようになりました。子どもたちは2週間おきに家に来るようになり、夏休みとかには長期で滞在するようになりました。自分の時間がもっと欲しい時には、自分の家に帰らせてもらいました。当時はまだ一緒に暮らしてはいなかったんですよね。一緒に暮らすようになって、色んなことが変わりました。当然、子どもたちの年齢も上がるわけでして。
私たちは、子ども部屋のある住居を探しました。これが、一緒に暮らす私の最初の条件でした。子どもたちの留守中の部屋の整理整頓は二の次でした。でも、当然うまくはいきませんでしたね。私は独り身だったし、彼は私よりも部屋の汚れや散らかりに耐性があったんです。例えば、彼はベッドの下を見ることはほとんど稀で、そこには甘いものとか紙くずなんかが散乱しているわけです。もちろん彼はそんなこと知る由もありません。残念ですが、私は穏やかにはなれません。自分の部屋とまとめて一人でやっちゃいます。私流に。「電気は消して!」、「扉は閉めて!暖房しているんだから」、「もう使わないなら、ちゃんと片付けてよ!」、さらには、「げっぷしないで」、「啜りながら食べないで」、「ベチャベチャ音を立てて食べないで」と、ナーバスになって言っちゃいます。そうして、どこかで聞いたことがあるような決まり文句でいっぱいになるんです。
その後、私たちは長期休暇中に初めて一緒に旅行に行きました。その後、私自身、もう一度休暇が必要となってしまいました。私たちは完全に夢から覚めた気になりました。 一部屋、二つのダブルベッド、逃れる場所がなかったこと、それは間違った選択でしたね。一応、これまでも既に考えていたし、心配していたんです。でも無視しちゃいました。それで、二週間にわたって深く関わりすぎてしまいました。私の彼は嫌がりましたが、私はもう一度チャレンジすることにしました。短い休暇でしたが、私の思い描く休暇でした。私は彼を子どもと一緒にするなんてできません。この休暇の後、子どもを作らなかったというのは正しい選択だったと分かりました。たとえ自分自身の子どもができることでまた何かが変わると分かっていても…
彼との同棲生活はとても素敵ですよ。思ったよりシンプルでした。ただ子どもが一緒だと、思ったよりたいへんでしたね。私は文献を買い集め、さらに、自分がどうやって子どもの教育に介入したらよいのか分からなかったので、親しいソーシャルワーカーさんとお話しました。答えはこうでした。自分が非難されたり怒ったりしたときには、当然そのことについて言ってもよいのだ、と。この家は私の家でもあるのだから。もちろん、私もまた「汝よ、我に何も語るべからず」という偉人の言葉と対立してしまいましたが。でも、思っていたよりもはるかにずっと後のことでした。それから、私ははっきりと、「この家では誰も人に手をあげてはならない」、「彼、息子はこの家で時間を無駄に過ごしてきたけど、それに対してうるさく言うわよ」、「息子は外で一度頭を冷やすべきよ」と、言うようにしました。すると、意外なほどに、この名言(言葉)を聞くことはもうありませんでした。
私と彼は実に頻繁に議論をしています。私は、彼の一貫性のなさ、自ら動こうとする欲求のなさ、教育問題で助言を求める際のやる気のなさなどを批判します。あらゆる面で、彼自身が不器用で、どういう方向で自分の子どもを育てていきたいのかも分かっていないほどなんです。なので、彼は、子どもの教育にほとんど影響を与えていないんですよ。週末になればもう伝えたいはありますよね。いつの日も、お互いに慣れるためには多くの時間が必要です。そういう時間は何度も繰り返していかなきゃ。
当然、私は、難しい立場にいますよ。自分の子どもはいませんし、彼の子どもたちの教育について語る上でも難しい立場にいます。ちなみに、そのことを彼の子どもたちからも聞くことがあります。「子どものいない大人は、どうせ何も分かってないんだ」って。でも、面白いことがありました。子どもたちと彼との関わりの中ででてきたんですけどね。彼が子どもたちに何かするようお願いしても、子どもたち、それを真剣に受け止めないんです。彼がまた何度か同じように頼んでくるってことを知っているんですよ。で、どうして今自分がやっていることを中断しなきゃなんないのかって。彼がかっと怒りだすまで、まだ時間があるなって。そう考えるんですよね。彼は、今現在必要のないことを頼んでくるんです。ただ、潜在的に、少し自分の力を誇示したいためにね。彼は、ちっとも果たせないような結論を出して、脅かすんです。彼の子どもたちもそのことを心得ていて、効果ゼロなんです。こうした点で、彼らはただ頭の賢い二人の子どもってだけではないんですよね。
それとは逆に、私は自分の願望を押し通してよいのか分からないんです。厳しくてもいいんじゃないという声もあるんですけどもね。どの道、私はほかの人にあちこち愚痴をいうこともできますし、自らの身を引くこともできます。年頃の息子の場合、この世の中全体がまさに悪くて、不当なものだと、そして、すべての人が自分に文句があるという印象を受けますね。
それに娘は、もう驚くしかないほどに抜け目ないですね。弟とテーブルのお片付けをめぐって言い争いになった時なんですが、娘は私を話に引きずり込んだんです。私たちは歌を歌い始めました。そして、テーブルが片付くと、娘は、「あれ、どうやってきれいにしたのかなぁ?」と言ったんです。その当時、まだ8歳ですよ。そこで、私は心底彼女のことを知った気がしました。
けれどまた、彼女は私をかつて傷つけたこともありました。私は怖くなりました。彼女はそのことを分かっていました。ある時、娘は私にお別れの手紙を書いてきたんです。その手紙には、「タニャのこと、大好き」、とありましたが、それは次のことをいうためでした。「…というのはたんなるウソ~」、と。その時、友人が一緒にいて、「これはきついね、ひどいね」と言ってました。こうした類いのユーモアにはホント、ビックリしましたね。
二人とも、子ども時代を、皮肉たっぷりと、辛辣に、それどころか時としてシニカルに生きていますね。そして、それに反して、二人はかなり献身的に子どもらしく生きようとしています(子どもらしいロールプレイを演じています)。お互いにそれぞれの利害の対立はありながらも、二人は一つの心、一つの気持ちになっています。以前、私は子どもたちを厳しく躾けていました。子どもの振る舞いはしっかり改めねばならない、そう思っていました。二人は、世界の中で起こっているあらゆることをよく知っていました。それは、私も、私が当時育てていた世代の人も興味のないことだったりもしました。二人は多くのことに興味をもち、また大きな疑問も抱いていました(宿題のときに、そういうことがあった気がします)。
彼は、他の人と一緒にいるときよりももっと子どもたちには厳しくしろと私に文句を言ってきます。彼は、私たちがもっと親密に共に成長することを望んでいるみたいでした。が、実際は逆のことが起こっていました。私は、自分の家にいることがいいとは思えなくなっていました。もう行き場がないと感じていました。いつでも誰かが家にいるんですから。小さな子ども部屋も当然、もはや二人にとっては避難所ではなくなっていました。でも、金銭的にはそうでもなかったですね。とにかくうるさかったです。子どもたちはたくさんトラブルは起こすし、泣き叫ぶし。喧嘩は耐えられないし、特に叫び声には完全に耐えられません。
もちろん、こうしたことは全部普通のことです。子どもですから。そうこうしているうちに、子どもたちも5つ年を重ねました。一人は思春期に入りました。もう一人は、どうして思春期の子どもが一気にこんなに変わってしまうのか、理解していません。思春期というのは簡単じゃないです。母親は最近男性の友人ができたようです。彼女はその彼と一緒の家に引っ越しました。それは、二人にとっても大きな変化でした。でも、そのことをよりクリアにするためには、知識は私には必要ないかなと思います。私は、自分のための静かな時間がないことで、すぐにイライラしてしまいます。最初の頃は、私一人で、子どもと週末を外ですごしました。が、その後、私の負担を軽くするために、彼が一人でいろいろとやってくれました。
現在は、その中間くらいで落ち着いています。時には、素敵な週末を過ごし、時には、たいへんな週末を、と。一週間のストレスが強く溜まっているし、週末の時間だけが一息できる時間になっているということもあって、いつももったいないな、と。
息子は今、週に一回、一人で私たちのところにやってきます。そして、お父さんと一緒に座って、学校の勉強をします。変な話ですが、勉強を教えているのは私なんです。彼は、自分が子どもの人生にほとんど関与していないことを悲しんでいました。それに、今となっては母にも彼がいます。その彼がずっと子どものそばにいるわけで、早く対応できます。子どもたちもその彼のことが大好きなんです。そういうこともあって、当然彼は、パパが入れ替わってしまうことに不安を強く感じていますね。もしかしたら、彼は自らその(母の彼の)立場に立たなかったのかもしれません。あるいはまた、私にこれ以上負担をかけたくなかったのかもしれません。だから、私はこう提案したんです。息子が一人で来た時には、より親密に関わって、一緒にいてより和むようにしたら、と。それからまた、会えて嬉しかったって思われるように、と。
私は、誰と関わったらよいのか、どんな困難が待ち構えているのか、全部ひっくるめて分かってきました。時が経つにつれて、私は多くのことを学びました。が、まだ学ばなければならないこともたくさんあります。特に落ち着き・冷静さ(Gelassenheit)ですね。私は、自分たちと、私たちのこの一時的な共同生活が今後どのように発展していくのか、わくわくしています。
<了>
*Patchwork family magazinより