Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「自己愛的万能感」(=利己愛的万能感)

昨日、片田珠美さんの『こんな子どもが親を殺す』という本を読んだ。

この本の中で気になる言葉があった。それが「自己愛的万能感」という言葉だ。ググってみても、片田さんしかこの言葉を使っていないようで、彼女のオリジナルの概念と考えてよいのかな。

フロムかぶれの僕的には、この言葉は「利己愛的万能感」と捉えるべきだと思う。あるいは、「自己中毒的万能感」と言ったほうがいいと思う。フロムは、自己愛を自己中毒(利己主義)と分けて、自己愛のポジティブな側面を見出している。片田さんは自己愛をあまり良い意味では使っていないので、そこは注意しておきたい。(ここでは「自己愛的万能感」としておく。

この自己愛的万能感は、片田さんによれば、こんな感じの言葉のようだ。

世の中に「自己の開化」「自己実現」「自分らしさ」をすべて求めることが許されるような仕事がどれだけあるだろうか? ・・・多くの人は、「自分らしさ」をある程度犠牲にしながらも、少しばかりの「自己実現」をめざして、日々の仕事をこなしているのではないか。それを受け入れられず、「自己の開化」「自己実現」「自分らしさ」などを求めすぎた若者が行き着く先がひきこもりであるように思われる。そして、その根底には、「すべて可能である」という自己愛的万能感を助長するような幻想が潜んでいる・・・ ひきこもりの若者は、自己愛的万能感からなかなか抜け出せずにいるのであるが、それを助長しているのが日本の社会、教育、家族のシステムである。・・・インターネット、テレビゲーム、ビデオなどの仮想現実に没頭することによって、他者が介在しない「自分中心」の世界に閉じこもり、自己愛的万能感を際限なく肥大させていく。(pp.57-58)


この「自己愛的万能感」を肥大させている人は、興味深いジレンマを抱えている。それは、「自己愛的万能感」と「現実の自己評価」の乖離、葛藤である。一方で全能的で利己的でエゴイスティックなのだが、他方で自分に自信がなく、自尊心が低く、他者からの評価ももらっていなく、他者から認められていない。このことは このサイト でも見事に指摘されている。自分は特別な存在だ、という感覚と、自分は取るに足りない、という感覚を同時に抱えている、というのだ。

この感覚が常軌を逸すると、「自己愛性人格障害」になるようだ。この言葉は、「ナルシスティックな人格障害」という英語からきていて、ここから、ナルシシズムと関係があることが分かる。

この言葉を聞いたとき、若者と日々かかわる僕としては、この言葉が自然に僕の中に入ってきた。今の若者全員が!っていうんじゃなくて、何百人もの学生の中の数人の若者に、こうした自己愛的万能感を感じることが多々ある。人格障害とかそういうのではなくて、普通の素朴な学生の中に、自己愛的全能感を感じることがたまにあるのだ。

かつて僕に怒られ、僕のことを嫌悪している女学生が講義の後のコメントカードにこういうコメントを書いてきた。

今日の講義、とてもつまらなかったですが、がんばりました

このコメントを読んだときに、怒りや悲しみではなく、???って気持ちになってしまった。この学生は、僕の講義のつまらなさを訴えつつ、そんなつまらない講義を90分耐えて受けた自分を誉めているのである(しかも、僕が読むことを前提としたコメントカードに・・・)。あ然としてしまった。

心の中で、「ああ、つまんねー講義だったな~ でも、頑張って聞いたぜ」っていうんだったら、それはむしろ自然のことかもしれない。中には、「つまんないけど、教師になるんだから、知っておかないと!」、「面白くはないけど、考えさせられる」というコメントカードもある。講義って、学生の面白さを狙ったものではない(僕は「面白さ」を意識している方だと思うけど・・・)。面白さや楽しさは、他で求めればいいはず。部活やデートや旅行なんかは問答無用で楽しいものだ。

「面白くないと聞かないよ!」、「つまんないと寝ちゃうよ!」、「私のことを見ててくれないと講義聞いてあげないよ!」、という学生は(もはや)決して少なくない。大学や講義に「面白さ」や「承認」を求める学生の幼児性も気になるが、上の学生は、さらに自分を誉めちゃっている。そこが驚くべき点だ。「つまらないことを学べない自分の弱さに苦しむ」のではなく、「つまらないことに耐えられる自分を誉める」のである。

まあ、僕は「批判されること」には職業上慣れているので、一つの意見として受けとめることができるが、この学生が心配である。ちょっと怒られただけで、その怒った相手を嫌い、否定し、その怒られたことを受け止めないで、自分を(奇妙な仕方で)肯定する・・・ これから先、こんな風にして生きていくのだろうか。心配だ。

こうした人は、「自己愛的万能感」を抱きつつも、根本的な意味で自分自身を愛していないように思う。自分をきちんと愛している人なら、「講義中に怒られるようなことをしてすみませんでした。これからは気をつけます」と堂々と言えるだろう。自分そのものが否定されたのではなく、自分のある一部の行為が否定されただけだということを知っているからだ。だが、自己愛的万能感をもった人は、自分そのもの、自分全体が否定されたと感じるのだろう。だからこそ、次に相手そのものを否定することをするのである。(自分のエゴイズムを保持するため)

自尊心を保つ上で、ある程度の万能感は必要だと思う。「私はやれば(頑張れば)何でもできる」という感覚がなければ、生きていくことすらできなくなるはず。しかし、すべてできる人間なんていない。不完全な存在ゆえに、頑張るのだし、努力するのだし、不完全な「箇所」を修正するのである。(自分を教育できない人は他人を教育することなどできない!! これは僕の教育の哲学だ。だから僕は学び続けるのだ!)

「不完全のままでいい。今のままでいい。あるがままの私を認めて」、という態度は、教師や保育士などを育成する僕には認められない。他の立場の人なら認めてもいいし、親や身近な人はそうすべきだと思う。けれど、僕は(ある意味で)認めてはならない。認めたくない!

自己愛的万能感、なかなか魅力的な概念だなぁ

コメント一覧

kei
fujiさん

こんにちは!

自己愛的万能感って、、、実際僕ら世代以降はみんなあると思うんですよね。豊かさゆえの現象のような気もします。ただ、一般的に「自分かも?!」と思う人って、当たってないことが多いんですよね。だからfujiさんは大丈夫かなと思いますよ。(本当に困った人は、自分が困った人間だと思えないってよく聞きます)

>抑制的でありながらとげがあるああいった言葉使いになる気がしました

なるほど~~~ 「犠牲の代償」、たしかにそうかもしれません。ある意味で「いい子」なんでしょうね。ゆえに、「とげとげ」するっていうのは分かる気がします。

最近、ホントに「いい子」にとって受難の時代だなぁって思います。僕なんかいいかげんだし、あんまり考えないで生きていますが、真面目で深く考え込む人が生きにくいんですよね。

たいへんな時代です。。。
fuji
↑投稿失敗です 記事の学生さんに共感するところがあった。とかに読み替えてくださいTT
fuji
こんにちは、はじめまして!

自己愛的万能感、なんか自分にも当てはまる気がしてしまいますね(汗

自分記事の学生
記事の女学生さんは認められることが少なかったんじゃないですかね?いい子でいなければいけないといいますか・・・。つまり、自分はできなければいけない、好きなことを我慢してしなければならないことをしろ。という風に育てられた。それゆえ、義務感とか自己否定感?を持っているから、講義にも嫌だけどきちんと出席している。
だから犠牲の代償としてそこは自分をほめると。

そういう意味で抑制的でありながらとげがあるああいった言葉使いになる気がしました。


なんか自分や自分の家族がそういう言葉を使うときはそういう風に思うのかな、なんて考えてしまいました!
kei
yukisukeさん

yukisukeさん同様、僕もロシア語を勉強していて、この年でどこまでできるか、人体実験中です。覚えが悪くて苦戦していますが。

>ですが、それなりの努力を評価してしてくれる人も欲しいと思う時もあります

たしかに! それは僕も同じです。それなりに誉められないと頑張れないし。ただ、頑張らないで誉めてもらおうというのはちょっと違うかなとは思うってだけです!! 人間、やっぱり承認されないとダメになっちゃいますから、それなりに評価をしてくれる人はどうしても必要だと思います。

>成績表の数値以外に、過程や人柄を評価していただける先生はどの程度の割合で居るのでしょうか

この質問について色々な人に聞いてみました。過程や人柄って、意識しているしていないにかかわらず、多かれ少なかれ評価に加えている人が多いみたいですよ(無意識的に入ることもあるんだとか)。単純にテストや結果だけで評価している人の方が少ないようです。

ただ、僕的には成績はテスト(結果)メインでやる方がいいかなって思っています。過程や人柄は最後の最後で(切り札として)取り入れればいいかな、と。

また、小中高大でその取り入れ方は様々ですし、成績に「絶対的基準」ってあんまりないように思うんです。評価されるのも人間であれば、評価するのも人間。ミスジャッジっていつでも起こり得ると思います。

答えになっていないですかね?!?!(汗)
yukisuke
Guten Morgen!

少しずつドイツ語を生活に取り入れて、どの程度、成人の脳に入っていくか研究中です(笑)

>こういう言葉って誰でも当てはまる部分をもっているんじゃないのかな

だれもが持っている部分であるからして、実は誰でもなりえることなんですよね。
過度に行き過ぎてしまえば、それには何らかの症状がつくのでしょうけど、、。

>強く思うのは、他人に認められたいなら、それなりに努力しろよ、ってことかな。

それなりの努力、、。そうですよね、努力しないで褒められる事はないですし、努力しての成長だとyukisukeもおもいます。

ですが、それなりの努力を評価してしてくれる人も欲しいと思う時もあります。
これを言ったらたんなる甘えですね、すいません。

Kei氏にひとつだけ聞きたいことがあります。

先生と呼ばれる方々の中に、それも学校のなかに、成績表の数値以外に、過程や人柄を評価していただける先生はどの程度の割合で居るのでしょうか?

kei
いや~ 僕も微妙に当てはまっているようで・・・(汗)

こういう言葉って誰でも当てはまる部分をもっているんじゃないのかな、と。

利己主義を超えるのってすごく難しいですよね。ほとんどの人が自分の都合しか考えてないわけで。

でも、先生をしていると、利己主義を克服している人も多々見かけるんです。もちろん利己性がゼロっていう人はいないけれど、利己性をほどよく抑制できている人は結構いるのかな、と。

yukisukeさんのおっしゃるように、他人に肯定されないから、必死に自己を過剰に肯定するっていう可能性は多々あると思いますよ。

上の学生も、僕の目には、孤独な子って感じがしました。

ただ肯定されたければ、もっとしっかりと頑張って勉強してもらいたいな、とも思いますけど。教師は、その人そのものではなく、その人がやっていることで評価せざるを得ないですからね。。

あと、強く思うのは、他人に認められたいなら、それなりに努力しろよ、ってことかな。僕は人に認められたかった(過去形)ので、それなりに必死に努力したように思います。

努力しないでも、ありのままの自分を認めてやれるのは、身近な友達や家族くらいですかね?! どうなんでしょう?!
yukisuke
http://be-blown-off-neworld.269g.net/
Guten Abend!Kei!

>自己愛的万能感、なかなか魅力的な概念だなぁ

面白くて、ひじょうに興味深いです。

読んでいて自分にも多々当てはまるかも!?なんて考えていました。

なんだか読んでいての率直な感想は、何だかんだいっても、結局は利己的な、あまりにも利己的な人間。という風に感じました。

なんだか自己利益至上主義と言うか、、。利益至上主義な会社を連想させてしまう感じですかねぇ。

愛の歪みゆえに、愛の認知不足ゆえに起こる精神の表れなのでしょうか?

他人に認めてもらえない不安感から、自分で補おうとして、自らを肯定し続け、存在意義を見つけていく。それがゆえに他者の意見を体よく流し、自分に都合の良い人を見つける。

その先にあるのは「人生の孤独」

なんだか非常に悲しい事に思えてきました、、。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「哲学と思想と人間学」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事