今、大学等では、「授業のオンライン化」が急ピッチで進められている。新型コロナウィルスの影響で、キャンパス内での講義やゼミが事実上中断されているからだ。
ネット上のサービス(ZoomやマイクロソフトteamsやGoogle Classroom等)を使って、ネット上で、講義をしたり議論をしたりする、というものだ。昔から「ネット会議」というのがあったが、その授業バージョンということになる。100人以上の人がネット上の会議室や教室に入ることができ、出欠確認もでき、テストもできるともいう。
細かい話をするときりがないので、このオンライン授業の内容についてはここでは触れない。
東大でもこの春学期、100%オンライン授業に切り替えたというし、早稲田もオンライン授業で進めると決めた。
東京大学は都内の大学の中でも、オンライン授業を行うことをいち早く決めました。
オンライン授業は、手続きやシステム構築に時間がかかります。一朝一夕で始められるものではありません。しかし東京大学は2013年秋から、米スタンフォード大学などの海外の有名大学が参加する大規模公開オンライン講座にコースを提供するなど、これまでに経験や実績を積んできました。
東京大学が「学事暦通りに授業を行いオンライン化を推奨する」と言い切ったのは、ひと月前の3月18日(水)。その背景には、こうしたものに裏付けられていたからなのです。…
…新型コロナウイルスに関してあらゆる面で迅速な対応を行っている早稲田大学は4月1日(水)、春学期の授業は原則的にオンラインで行うと決定しました。
他の大学は夏休み前までの全ての期間、通常授業は行わないと断言していないことを踏まえると、早稲田大学の踏み込んだ対応は目を引き、はじめから「コロナは夏までに収束しない」と考えていることがわかります。…
本格的なオンライン授業導入により多少の混乱が起きると予想されますが、これまでの流れを見ていると、多くの大学が早稲田大学の対応を後追いしています。
おそらく、日本に1000以上ある大学・短大は、この東大と早稲田に「右にならえ」で、どんどんオンライン化を進めていくことになるだろう。
僕も、別にネットに慣れていないわけではないので、色々と試したり実験してみたりもしています。決してオンライン授業に批判的であるわけではない。だいたい、そもそも超のつくネット大好き人間だ。
しかし、今の大学の「大学の総オンライン化」にはとても危惧している。というか、これはまずいだろう、と思うに至った。その理由を述べておきたい。
1.
最も問題なのが、「パソコンをこれまで使ったことのない学生」のことを何も考えていないということだ。これは大学のいわゆる「ランキング」の下にいけばいくほどに、深刻な問題となっていく。データ上では、「パソコンをもっている学生の数」はわりと高く出ているが、これは、僕の実体験に基づく感覚と大きくずれている。
たしかに、ネットサーフィンやワードでの文書作成くらいなら多くの学生ができるとは思う。でも、それくらいだろう。うちの学生の場合、タッチタイピング(ブラインドタッチ)ができる学生はとても少なく、また、エクセル入力もかなり厳しそうだ。もちろん練習したり鍛えれば、できるようになるとは思うが、この春学期(8月頃まで)の間に、それを習得しつつ、オンライン上で講義を受けつつ、レポートを書いて、ネット上でそのやりとりをする、というのは、ほぼ不可能に近いだろう。
地方自治体は「パソコンを貸し出す」と言い出しているが、いきなりパソコンやルーターが送られてきたところで、いったい何ができるというのだろうか。パソコンは、複雑な機能をもった極めて複雑な機器であり、初心者がすぐに使いこなせるようなものではない。95年頃からパソコンをいじっている僕でも、ほとんどパソコンのことなど分かっていない。それをいきなり「パソコンを貸すから、オンライン授業、頑張って」というのはあまりにも無責任ではないだろうか。
学生たちのパソコン・ネットリテラシーを考えると、大学の講義等の総オンライン化には賛同できない。
2.
大学や短大は、大雑把に言えば、①理論系、②実践系に分かれている。文系と理系の区別というよりは、どちらにおいても、理論系と実践系がある。オンライン授業は、①の理論系には、とても馴染みやすいと思われる。講義も、理論的な話であれば、とても進行しやすい。もしかしたらキャンパス内での講義よりもよいかもしれない。何度も繰り返し、話を聞けるからだ。理論的な話というのは、一度聴いてすっと入ってくる話ではない。
他方、②の実践系の講義や演習においては、オンライン授業はとても困難なものとなることが予想される。例えば、医学、看護学、教育学、保育学、社会福祉学といった領域の学科においては、「実践」「実技」「模擬実践」「臨床的トレーニング」等が指導の中に入っており、これをオンラインでやれというのは、とても難しいし、また将来のことを考えると、極めてリスクも高くなる恐れがある。
とりわけ「行為」にかかわる実技となると、その学生の「身体性」が問題となる。生身の人間にかかわる専門家や実践者を育成するとなると、なまの人間の身体性に触れる必要があるし、「他者の他者性に触れる」ということもとても大事になる。「新型コロナ」は、そのなまの人間の身体の接触を禁止するものであり、この部分は、実践的な学科においては、致命的なダメージとなっている。だが、学生一人ひとりの「身体性」を把握することなしに、実践的な学科での教育や指導は成立しない。個々の人間(学生)の動きや立ち振る舞いや些細な機微を把握し、その部分を修正していくことが、実践領域においては重要になってくる。
オンラインでは不可能な「なまの身体性への接触」、しかも、新型コロナで最も避けなければならない「なまの身体性への接触」、この問題に直面しているのが、②の実践系の学科であろう。
この立場からしても、大学教育の総オンライン化には、やはり賛同できない。
3.
オンライン化ができる講義はオンラインにすればよい。それには同意する。が、それを全て「オンライン」一本で統一することには、意義を申し立てたい。
では、どうすることが可能か。
自分の中にそれほど明確な答えがあるわけではないが、上のことを考えると、ある程度の妥協策を考える必要があるのではないか、と思う。特に2の②の実践的な学科に限定して、話を進めたい。(理論系の学科のことは想定しない)
十分にウィルス対策をした上で、個別の教育的な対応は不可能であろうか。大学キャンパスに入ることを禁止するのではなく、集団で登校することを禁じつつ、個別に教育することはできないだろうか。実践領域の学科の学生は、将来、社会的なインフラにかかわる人たちである。今、現在、その社会的なインフラを支えている人と同じように、「学ぶ経験」を尊重することは不可能だろうか。
通勤通学ラッシュは避けたいので、その時間帯は避けつつ、個別に対応することは可能ではないだろうか。もちろん「不要不急の外出の自粛」は不可避だが、「社会的インフラを担う実践者の卵たち」が学ぶ場所に行くことは、不要不急には当たらないはずだ。限られた学びの時間の中で、しっかりと身をもって学ぶことは、学生個人だけでなく、この国の社会全体にとっても大事なことであるはずだ。
国が、「あらゆる大学・短大の前期課程を中止して、欧米と同様、9月~10月入学に切り替えます」と宣言するのであれば、それはそれでよい。だが、そうでないのであれば、すべての大学が(横並びで、せーので)オンライン化に踏み切ることには、同意できない。
もちろん、「三密」に代表される「人と人との接触」を可能な限り避けることは(あらゆる社会的機能を守るためにも)最重要なことだとは思う。ただ、大学や短大での学びまで(その全てを)「不要不急の外出」として禁じることは、果たして正しいことなのか。いや、それ自体は正しいとしても、それに代わる安易な「オンライン化」で「単位」を与え、「免許証」や「資格」を与えることになってしまってよいのだろうか。
もしそうだとしたら、大学機関における「専門的実践者の養成」とはいったい何なのか。もしオンライン授業で医師や看護師や教師や保育士やソーシャルワーカーの資格が取れるのであれば、「臨床実践」「実技指導」「実践指導」「演習」「模擬授業(保育)」はいったい何のためにあったことになるのか。僕は、こうした科目が不要だと言いたいわけではなく、逆に、それこそが実践系の学科の最大の意味ではないのか、と問いたいのだ。
とすれば、やはり「総オンライン化」には反対せざるを得ない。
学生たちのためだけではない。医療・教育・福祉等、社会的インフラを守るためにも、このことはもっと真剣に議論しなければならないのではないか。
安易に「総オンライン化」で終わる話では決してないはずだ。
ベタな話だけど、人間の人間性は、やはり「人と人とのあいだ」で育つものだと思う。目に見える表情や言葉や身振り手振りだけで育つものではない。会話と会話の間の「沈黙」や、自分と他者の微妙な「差異」や、その人の身体的な「存在感」や「息づかい」や「立ち振る舞い」から、人間的な人間らしさを学んでいくものだと思う。オンライン授業では、それを学ぶことを保障するものではないと思えてならない。(逆に、嫌なことがあればスイッチ一つで終わりにしようという発想の強化になってしまいかねない)
だから、例えば、時間帯を区切って、来られる人から一人ずつ大学に来てもらって、短時間でも学ぶ時間を作ってみてはどうだろうか。三密を避ける、3mくらいの距離を保つ、マスクを絶対に外さない、手をよく洗ってから構内に入る、その上で、やれる教育活動を地道に続けていく。もし、家が大学から遠くて来られないなら、車をもつ教員側が自宅近くに出向いて、出張授業や面談を行うこともできる。それくらいなら、できるはずだ。
大事なのは、教員側のホンキ度というか、学生一人一人を大事にしていることを態度で示すことだ。今、どれだけの学生が大きな不安を抱えていることか。先の見えないこの状況の中、未来ある若者たちが「自粛」させられていることには、胸が痛む。まず、学生たちを孤立させないこと、そして、(最大限の配慮をしつつ)なまの人間的な交流を絶やさないことだ。できることをやらずに、教育なんてできるか!、と。
繰り返すけれど、理論的な学問領域の学びであれば、総オンラインでよいと思う。でも、なまの人間に関わる実践的な学問領域の学びであれば、こういうときに、オンラインに切り替えておしまい、というわけにはいかない。第一、今も、医師、看護師、介護士、保育士たちは、現場で人と関わり続けているのだ。教師たちも、授業こそないが、実は水面下で、子どもたちの様子を見守るために、地域のパトロール(?)のようなことをしていたりする。
そういう職業に就こうとする若者たちを育てようとする実践的な学問領域にいる僕ら教員は、今、本当の意味でその存在理由が問われているように思う。
…
まだまだ、言葉が足りなくて、うまく言い得てない気もするが、あまり長くなるのもあれなので、この辺でとりあえず終わりにします。