今日、こんな記事がupされた。
教職員2万5000人増、「小学英語」要員など…文科省原案
5月23日3時6分配信 読売新聞
改正教育基本法に基づき、戦後初めて策定される「教育振興基本計画」の文部科学省原案に、教職員定数の2万5000人増員が盛り込まれることが22日、明らかになった。2011年度から始まる小学校英語の専門教師に約2400人、理数系を中心とした少人数指導の要員に約8800人をあてるなどとしている。
[・・・]現在の教職員数は約70万人。行革推進法が10年度まで「児童生徒の減少を上回る割合での教職員の純減」を定めていることを受け、新学習指導要領が小学校で実施される11年度以降の2年間で実現することを目指す。内訳は、小学校英語の専門教師や少人数指導の要員のほか、新指導要領で授業時間が増えることに対応するため、小学校で11年度に約1万人、中学では12年度に約3300人を増やす。
(下線部;筆者、引用元はこちら)
素直に教員採用数が増えることは嬉しい。現在の若者の「教師への道」の枠が広がることは端的によいことだ。(僕ら団塊Jr世代の教員採用数は天文学的に僅かであった・・・)
だが、今回の記事は邪念なく喜ぶことができなかった。
上の下線部をよく読むと、英語教師と理数系の要員を補充する、と謳っている。英語と理数系の強化のための補充なのだ。
現在の混迷する教育界の中で、新たな教員を迎えることはよいにしても、採用する意図に疑問を抱かざるを得ない。
もちろん英語教育や理数系の強化は日本の国益にとってはとても重要であるし、グローバル社会の中では不可避のことかもしれない。「理科離れ」という言葉もすっかり定着したし、いまだ日本は「英語が通じない国」であることにも変化はない。
けれど、その英語と理数系(自然科学)の学力向上のための教員増員だとすると、少し悲しい。というか、気持ちが萎えてくる。
18世紀に芽生えた「児童中心主義」、あるいは「新教育」の発想とは真逆の考え方による教員増員なのだ。子どもの直観から出発する教育とは別の考え方で、教員増員をしようとしている。
つまり、「子どもたちが望んでいること」、「子どもたちが感じたがっていること」から、教員補充をするのではなく、「大人側の都合」、「社会のニーズ」、「国益」、「世界の要望」から、教員補充をする、というところに、児童中心主義の崩壊を感じるのである。
もちろん国益や日本社会の発展のために教育が行われること自体は、長い教育の歴史から見ても、決して許されないことではない。国益がからまない教育は公教育とは呼べない(部分はある)。それは認めるにしても、「ゆとり教育」から、「学力低下論争」を経て、「英語教育」、「自然科学教育」へと向かう理由というか、根拠が非常にあいまいな気がする。なんとなく、という暗黙の雰囲気がそうさせているようにも思える。
90年代の「子どもの意欲・関心・態度から」という新学力観はどこへ行ってしまったのか。もっと根本的に言えば、「子どもから(Von Kind aus)」という新教育の思想はどこへ行ってしまったのか。子どもに一方的に教え込む教育を批判し、子どもと共に学び、共に生きる教育はどうなってしまったのか。いや、どうなってしまうのか。
・・・
いわゆる「教育学」を教える僕にとっても、この問題は非常に深刻・・・