Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

人が目覚める時・・・ ニーチェより♪

今もなお、世界では、ニーチェのファンはとても多い。もちろん日本でも、ニーチェに傾倒する人は少なくなく、若者から高齢者まで、たくさんの人を虜にしている。僕自身は、あまりニーチェに傾倒することはなく、なんとなく気になる哲学者って感じだった。彼の晩年の著書、「この人を見よ」は、もう何がなんだか全然分からずに、おのれの無知を悲しんだ(これは強烈な本だ・・・)。「悲劇の誕生」は結構面白かったかな。「アポロ的なもの」と「ディオニュソス的なもの」の区別は「ほぉ~」って感じだった。それより、強烈に他の哲学者たちの考えに差し迫っていく文章に迫力と説得力を感じずにはいられなかった。

でも、やっぱりニーチェといえば、Also sprach Zarathustraだろう。「ツァラトゥストラはかく語りき」、だ。彼の「超人思想」は、(かなり現実離れしている気もしなくもないが)かっこいいって思えた。かなりロックな思想って感じがして、読みやすくて、内容も近づきやすくて、感銘を覚えた。「女は男よりも子どもを理解する。しかし、男は女よりも子どもっぽいのだ」っていうのは、「まさにそのとおり!」って感じで。

この本の出だしは、僕が最も大好きな箇所の一つ。山にこもって隠居していたツァラトゥストラが開眼し、太陽を自分に重ね合わせ、太陽に問いかけ、人間のいる下界へと降り立つことを太陽に向かって語るシーン。自分がいることで太陽が輝けるように、自分も人の手によって輝こうと欲するワンシーン。太陽に恵をもらったように、自分も人に恵を与えようと決意する。そこのところが大好きだ。

ツァラトゥストラは、30歳の時、自分の故郷と故郷の湖を離れ去り、山へと向かった。彼は山でおのれの精神とおのれの孤独を楽しみ、10年間それを続けた。しかし、ついに彼の心は変わった。ある朝、彼は朝焼けと共に目覚め、太陽の前に立ち、太陽に向かってこう言った。

大いなる星の太陽よ! もしオマエに照らすものがなかったのならば、いったい何がオマエの幸せなのだろうか。

10年間、オマエは私の洞穴の上に昇ってきてくれた。もし私がおらず、私の鷲がおらず、私の蛇がいなかったら、オマエは自分の光と自分の道程に飽ききっていただろう。

だが、われわれはオマエを毎朝待ち焦がれ、オマエの溢れんばかりの光を受け取り、それを祝福した。

見よ! 私は、蜜を多く集めすぎた蜂のように、自分の知恵に飽き飽きしているのだ。私には、差し出してくれる手が必要なのだ。

私は与え、分け与えたいのだ。人間の中の賢き者どもが再びもう一度、おのれの愚かさを喜び、貧しき者が再びもう一度おのれの豊かさを喜んでくれるまで。

ゆえに、私は深き場所へ降りていかねばならぬ。そう、オマエが夕べに向かうように。オマエが海のかなたへ沈み、下の世界に光を与えるように。豊穣なる星の太陽よ!
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