一昨日にツイッターでつぶやいたことをまとめてみました。
ただのつぶやきのまとめってことで。
まわりの人間たちに同調することに疲れた人は、どうぞお読みください!
これは、ある人へのメッセージ?だったので、ノークレームでお願いします(;'∀')
世人か、超人か?!
若い頃、何も考えずにヘラヘラ笑って、テキトーにまわりに合わせている奴らが嫌で嫌で仕方なかった。「こいつらと俺は違う」って思って、「いつか見てろよ」って思って、(やりたいことを犠牲にして)将来のために必死にやるべきことを頑張った。
今も色々きついけど、まぁ、いい人生を歩んできたなとは思う👊
ただ、この歳になっても、やっぱり「みんな、テキトーに生きてんな」とは思うかな…。
けど、それこそが、ハイデッガーのいう「世人的自己」であり、ショーペンハウアーのいう「フィリスター(Philister=俗物)」なんだよね。そこから抜け出すのは、昔も今も難しいんだ…
「世人的自己」について知るならこれ!
フィリスター(俗物)とは何かを知るなら、これ!!
***
そんなふうに、世人やフィリスターたちを憎悪していた時に、岡村孝子の「微風」に出会ったんだ。
「誰でもが今日を生きてる 悲しいほどひたむきに それぞれの胸の奥の熱い夢を抱きしめて」
って。
「世人」も「俗物」も悲しいほどひたむきに今日を生きてるんだなぁって…、彼女の歌を聴いて思いましたね。
…
そんな世人や俗物に振り回されないために、僕は、実学(資格系)の勉強をほぼ捨てて、哲学や語学や歴史など、実社会で役立たない勉強を徹底的にやったな。結果、それがめちゃめちゃ役に立った、という。
世人や俗物は実学に向かい、狂人と天才は実学を嫌悪する。これも世の常かな。(僕は天才じゃないので、狂人なんだと思う…)
世人や俗物と違う道を歩むためには、「覚悟」と「決意」が必要なんだ。
孤独に生きる覚悟と決意だ。
世人的・俗物的常識(更には教養俗物)を「超える」という意味では「超人(Übermensch)」になるしかない。超人になるためには、…まずは、ニーチェとショーペンハウアーを読破、かな(苦笑) でも、おススメはしない。超人は「狂人」にもなってしまうから。ただ、そういう考えもあるんだ、ということは知っていてもいい。
「超人とは、大地の意味(意義)である(der Sinn der Erde)」
いや、でも、だからこそ、世人や俗物を超えるためには、「覚悟」と「決意」なんだよな…、と。
世人や俗物だらけの「社会」と決別するということは、「孤独の世界」を生きるということだから。でも、それが自然とさらっとできる人もいる。そういう人から「孤独を生きる方法」を学ぶのもいいかもしれない。
先日15周年を迎えた【第四土曜日の会】って、そういう孤独な保育実践者たちの集まりだとも思ってる。「現場」に違和感を覚えている人たちの集まり、というか。
だから、この会に来る人たちのことは、「同志」だと思うし、だからこそ、誰よりも応援したいと思う。それが15年続けられた理由だとも思う。
2007年から2021年まで続けた「ドイツ語愛好会」~「ドイツ語クラブ」も、そういう孤独な学生たちとつながる場だった気がする(そうじゃない時もあったけど…)。っていうか、まさにそういう学生たちのためにやって来たことだったなと、今になって思う。悩める学生たちじゃない。孤独を生きてきた学生や生きることを決めた学生たちだ。(悩める学生は、途中で離れていったなって、今になって思う。決意した学生たちばかりだったな…って)
「人は人、わたしはわたし」
世人や俗物の世界から離れ、孤独な道を歩んでいる(歩むことを決めた)学生たちとは連帯したい。そういう学生の支えになりたいし、そんな学生から僕も学びたい。
ただ、それは、これまで以上に過酷な道を歩むことでもある。僕自身、とてつもなく自分に厳しい先生に指導されたし、僕も自分に(なんとか)厳しくしている。自分にどこまでも厳しい人間だけが、世人や俗物を超えることができる。どこまで自分を甘やかさずに、過酷な厳しい道を歩もうとするか。
そういう厳しさに耐えられないなら、孤独の道は歩むべきではないかな。
世人を生き、俗物として生きることもまた、その人の生き方なのだ。それを誰も否定すべきではないと(今になって)思う。ただ、僕はそういう生き方はしたくないし、そもそもできないし、これからももっともっとディープでマニアックな世界に沈んでいきたいと思うだけ。どっちがいいかって話じゃない。
自分がどう生きたいかくらいは、自分で決めなきゃね。
Dear next...
やっぱり岩波文庫でしょう\(^o^)/
…
追記
多分、この「世人」と「超人」のあいだを生きている人も多いと思う。「同調して、俗物として生きる人」を嫌悪しつつも、「同調せずに、孤独な超人を生きる人」にはなれない人たち。そういう人たちこそが、実は一番健全な気もする。「なんか違和感があるな」と思いつつも、そこから完全に脱却することまでは考えない。その中で葛藤し続ける。
あと、これを書いて思ったのは、この「世人」と「超人」は、「正常な人」と「異常な人」の区別とは明らかに違うな、ということ。超人思想は、異常な人を最も崇高な存在として見なすので、それこそ世人的な理解を超える。俗物を蔑視し、超人を理想とする生き方は、「正常」への否定とつながる。
異常な人から見れば、正常な人こそが「異常」なわけで、その正常な人の異常性を浮かびあがらせるという意味では、この一連の議論をたどることもきっと無駄ではないだろうな、と。