Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

承認されない時代に自己を肯定できない人たち―ゆとりのない教育ゆえ?―

 

●先日、とある超名門大学の理系の学生と話をしていて、「自分は自分を好きになれない」という話が出た。ルックスもそれなりによくて、知的にも聡明で、まわりから見たら、なかなか手が届かなそうな感じの学生だったのだが、自分を肯定できずにいることを少し憂いていた。

●勉強をいっぱいして、いい大学に入っても、自分を肯定できない。自分が、大学の名前以外で、承認されない。そういう苦しみは、90年代にもあった。今、何かと話題のオウム真理教の信者たちだ。彼らもまた、スーパーエリートたちだった。バブルがはじけ、世の中が激変している中で、敏感な知的に優れたエリートたちが、カルト集団と呼ばれる宗教団体に入信していった。

●90年代は、「心の教育」が叫ばれた時代だった。それは、自分がここにいるということを承認してもらえない時代の新たな教育として、注目された。自分が存在しているだけで価値がある、そういう感覚をなくした若者が多い時代だった。「心の居場所」を求める若者が多かった。神戸のあの事件もあり、子どもたちの「心の闇」も問題となった。心の教育を育むために、考えだされたのが「ゆとり教育」だった。そして、スクールカウンセラーの導入だった。

●バブルがはじけてから、20年が過ぎた。が、子どもたちの心の「空白」は今も埋められてはいない。そのひとつの現われが、オウム真理教から名前を変えた宗教団体の信者の増加であろう。あれだけ、世の中を震撼させた事件を起こした団体であるのに、若者の入信が相次いでいるという。あの頃から、実は何も変わっていないのかもしれない。

●かつてのように、子どもたちはたくさんの大人に囲まれて生きていない。無条件で受容し、無条件で存在を肯定してくれる大人がそばにいないまま、幼少期を過ごすことになる。「私だけをみて」という願望はなかなか叶えてもらえない。幼稚園や保育園に行けば、「私だけ」という感覚は捨てざるを得ない。保育者や幼稚園教諭は、みんなの「先生」「保育士」だ。自分だけのために存在しているわけではない。

●「僕だけを見て」「私だけを見て」という、どの子どもにも見られる当り前の感覚が、満たされないまま、小学生になる子は、この数十年間、ずっと居続けている。寂しい思いをしている子どもたちは実に多い。勉強ができて、それが褒められても、存在のまるごとが肯定されるわけではない。「成績の良さ」は褒められても、自分がいることへの承認はなされていない。

●ゆとり教育は、本来、そういった「一人ひとりの子どもの承認」という要素をもつ教育だった(はずだった)。が、そうはならなかった。いや、そうなる前に、方向転換してしまった。そして、次に続くのが、新自由主義的教育、つまり競争原理を導入した教育だった。橋下さんの教育思想がまさに今の教育界の主流になりつつある。学校は競争する場所である、という空気が徐々に深く浸透してきている。

●17年前のあの大惨事は、若者たちのこの国への不信や不満から生まれたものだったと思う。そして、今、若者たちの多くが、この国、この社会に大きな不満を抱えており、その不満をインターネットの世界でぶちまけている。社会への不満、国家への敵意、そういった感情が若者に共有されればされるほど、またオウム事件のような事件が起こるだろう。麻原自身が、まさにそうした不満や敵意の持ち主だった。

●河合先生が考案した「心のノート」は、完全な失敗に終わったと考えてよいだろう。だが、「心の教育」は、今もまだ大きな課題として残っているのではないだろうか。今、若者たちは、みんな自分に自信をもてていない。僕は普段若者とかかわる仕事をしているから、それを強く感じる。どんなに頭がよくても、どんなにいい大学を出ていても、自分を愛せずに、またそのことで苦しんでいる。

●「承認されたい」と思う気持ちは、極めて自然な感情だと言える。子どもたちは皆、自分が承認されることを心から願っている。自分がしたこと、自分が見たこと、自分が感じたことを、誰かに認めてもらうことを望んでいる。だが、その認めるべき大人は、今日、狭く限定されており、しかも一番肯定してもらいたい親が忙しかったり、いなかったり、どちらかの親がその家にいなかったりする。「認めてくれる他者」がいない、そんな中で、必死に勉強している子どもの姿が思い浮かぶ。

●勉強して、いい成績をとって、褒められるというのは、それ以前の自己承認がきちんとなされていることで、初めて有用なものとなる。きちんと自分の存在が承認されている子どもだけが、よい成績で褒められることを純粋に喜べるのである。よい成績で褒められることを、自分の存在の肯定と重ねて求めている子どもたちは、最後まで自己を肯定することができないまま、大人になってしまう。そういう若い大人たちが多かったのが、90年代であり、また00年代であり、さらに今日の10年代なのかもしれない。

●僕が幼少期を生きた70年代末から80年代はまだ、ギリギリ、地域社会がうまく機能していたように思う。あるいは、なんとか機能していたというべきか。みんなが同じ団地に住み、専業主婦たちばかりで、自分の母親のみならず、色んな親たちから存在を肯定してもらえていたと思う。問題行動を起こしてばかりの僕だったけど、それでも、地域のおじさんたちから、「kei君は、たしかに問題行動を起こすけど、いいものをもっている」、と言われていたそうだ。まだ、地域のコミュニティーが機能していたと言えるように思う(が、でも、その途中から、完全にその機能が壊れていったとも思う。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120617-00000003-maiall-bus_all

●90年代に議論されたのは、まさにそういう「子どもの承認欲求に応えよう」という取り組みだったのではないか。子どもの意欲や関心や興味を肯定するというのも、この「自己承認経験」がねらいだったように思う。つまり、「先生、見て!」というその気持ちをまず肯定しよう、と。そういう取り組みが目指されていたように思うし、それを「心の教育」と呼んでいたように思う。

●だが、あれから17年以上が過ぎ、ますます子どもたちは自尊感情・自己肯定感情から遠いところに来ているように感じる。学校での成功体験が、自己肯定に直結しないのだ。勉強をどれだけ頑張っても、それで自分の存在の価値が見出せないのである。それほど悲しいこと、健気なことはないだろう。

●今こそ、ミヒャエル・エンデの『モモ』が読まれなければならないんじゃないかな、と思う。

●本当の意味での心の教育、それはやはり今も強く求められているように思う。自己肯定感情がなければ、人は生きてはいけない。自分の存在をあるがままに肯定できて初めて、社会の中で、普通に生きられるのだから。とりわけ、貧困の問題で言えば、貧困層の家庭の子どもたちの自尊心の低さは極めて重要であろう。もちろん、エリートたちの自尊感情の低さも問題にされねばならないが。

●なぜ、ここまで、自分の存在が肯定されなくなったのか。その背景には、いったいどんな問題が潜んでいるのか。

 

・・・続く☆

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「教育と保育と福祉」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事