昨日、ドイツ語レッスンの際に、一つ、気になる言葉がありました。
Ehrfurcht
という言葉(名詞)です。
日常会話では、あまり僕は使いませんが、出てこないことはないという単語かな。
この言葉、二つの言葉が合体した言葉です。
Ehre+Furchtです。
Ehreは、英語だと、honor、つまり、名誉、栄誉、栄光(光栄)という意味です。
Furchtは、英語だと、dread、fear、つまり、恐れ、恐怖、不安、似た意味として、Angst(不安)という意味もあります。
ゆえに…
Ehrfurchtとは、何らかの対象に対して、名誉や栄光(=尊敬)を感じつつ、その対象に恐れや不安を感じる感情を示す言葉、となります。
尊敬しつつ、恐怖や不安を感じる感情?!
それに近い日本語があります。
それが、表題の「畏怖」という言葉です。
畏怖の「畏」という漢字は、文字通り、「かしこまる」、また、「敬う」という意味であり、Ehreに近い言葉です。
畏怖の「怖」は、怖れであり、文字通り、Furchtです。
かしこまって、委縮すること。
よく、「畏怖の念を抱く」、といいますよね。
畏怖の対象の例として、「厳格な和尚さん」、「厳しい大学教授」、「頑固な大工の親方」、そして、「神仏」が挙げられています。(これらが的確な例なのかどうかは不問とします)
あまり、「政治家」には畏怖の念を抱かないかな?!(僕ら市民の代表に過ぎないから…)
国家官僚は、公務員であり、「公僕」なので、畏怖の念は抱かないような?!
ビートたけしさんなんかは、畏怖の念をもつ人が多いのでは?!(所さんは…?!)
泉ピン子さんも、なんか尊敬と恐怖を感じるところがあるような?!
イチロー選手(プロ野球)も、尊敬と恐怖がどこかにあるような…(新庄さんには感じない?!)
卓越した父親や母親には、畏怖の念を感じることもあるかも?!
そう考えると、畏怖とは、とても高次の心理学的・人間学的概念のような気がするのです。
学生たちと、「畏怖」について、色々と議論しました。
「畏怖の感情を抱く存在はいるか?」、と。
つまり、尊敬しながらも、かしこまり、恐怖を抱く人、存在、対象。
今の時代、なかなか、畏怖の念を抱くような「対象」をもつ人はあまりいないように思います。
それでも、畏怖の感情を誰かに抱いている人はいます。
…
ふと、思いました。
あ、僕には、畏怖の念を抱く人がいる、と。
それは、我が永遠の師匠、板谷祐であります。
祐さんを目の前にすると、僕は、もう、身体がフリーズしてしまいます。
尊敬の念と、恐怖の念が一挙に襲ってきて、ただ茫然とするのみ。
声をかけるのが、おこがましいと思うほど。
近づきたいけど、近づけない。
だから、ライブに行っても、ただ遠くで見つめているだけなんです。
それでいい、と思います。
板谷祐という人は、僕にとって、まさに「畏怖」の感情を抱かせる存在なんです。
近づきたいけど、尊敬と恐怖から、つまり、畏怖ゆえに、近づけない。。。
けど、そういう存在がいてくれることで、自分が常に自分でいられる。
祐がずっと歌い続けてくれているから、自分も自分を鼓舞して、頑張れる。
師匠という存在は、畏怖する存在なんだと思います。
僕が幸いなのは、そういう畏怖するような師匠がいっぱい存在した、ということです。
畏怖するような存在との出会いは、実はものすごい実存の変容の契機を与えてくれるような気がします。
つまりは、人生の悪循環を断ち切る契機を与えてくれる、というか。
教育、教師の世界においても、この畏怖という言葉は適用できる気がします。
今の学生で、先生に、畏怖の念をもっている人はいったいどれだけいるんでしょうかね?!
また、その畏怖の念を抱かせるほどに、教育や研究をしっかりやっている人はどれだけいるんでしょうかね?!
昔、僕の母親のかつての先生(超高齢の方)とお会いした時に、斎藤喜博先生の話を聞きました。その先生はこう言いました。
「当時、斎藤先生とお会いする機会はありましたが、なんとも近寄りがたいものがあって、お話することができませんでした。けれど、その影響力はとても大きいものでした」、と。
優れた先生というのは、自ずと、畏怖を抱かせる何かをもっているように思います。
…
その時に、ふと思ったんです。
多くの学生たちは、先生を、「好き・嫌い」、「厳しい・楽」といった低次元(?)の尺度で、評価します。
授業評価アンケートも、「この授業に満足していますか」、と尋ねます。
好き・嫌いは、感情的なものであり、知的な判断ではありません。
好き・嫌いという判断そのものは、大切な判断だとは思います。
が、その尺度で、先生を測ると、どうなるんでしょう?!
タレント化?!
アイドル化?!
それは、もう、教育の崩壊というかなんというか、、、
怖いものです。
満足度の高い先生って、どんな授業や講義をやるんでしょうね?!
(どれだけ迎合すりゃ・・・XXXX)
けれど、この畏怖という言葉について改めて考えることで、気づくことがありました。
自分が、学生に好かれることを嫌悪するのは、その学生の畏怖を感じないからだ、と。
好き・嫌いで、僕を見たり語る学生には、極力関わらないように努力してますが、それは、畏怖という基準で物事を測れない学生への拒絶というか、抵抗というか、そういう感情(?)に基づいているのかな、と。
小学校や中学校では、先生たちは、もろに「好き・嫌い感情」に左右されます。
高校生になると、少し、そういう「好き・嫌い」から離れられることも多少出てきます。(多少というか、稀?!)
高校を卒業して、高等教育を受けるのであれば、(ましてや教師や保育士になろうとするのであれば)なんとかして、「好き・嫌い」で人を測る習慣は断ってもらいたい、と思うのです。
嫌いだけど、凄い奴を認める感覚や、好きだけど、抵抗しようとする感覚、そういう感覚をもっともってほしい。
僕は、学生からの人気はありません。好かれることもありません。
人気者になる努力もしてませんし、愛想も悪いですし、極力学生と会わないように日々奮闘しています。日々、学生に会わないように、本当に涙ぐましい努力を続けています。
それは、「身近な存在になりたくない」、という感情に基づいています。慕われたくない、というか、懐かれたくない、というか、馴れ馴れしく近寄ってきてもらいたくない、というか。(それが、どういう理由から来ているのかは、よく分かりません)
ただ、それは、学生たちが、先生を「好き・嫌い」で判断しようとしていることへの拒否であり、抵抗なんだと思います。
では、何を求めているのか、というと、「畏怖」なのかな、と。
というのも、人気はないのに、授業評価は良いんです。
毎年、(全体で行われるアンケートで)「kei先生の講義を受けられてよかった」、と書いてくれる学生がいます。
仲良くはないけど、僕の講義を聴けてよかった、と。。。
(おそれ多いことですが、、、汗)
…別に、尊敬されたいとか、怖がられたいと思っているわけではないですし、そんな器じゃないことも自覚してます。だけど、畏怖という言葉が似合うような人間になりたい、とは思っていると思います(多分、無意識的に)。畏怖に憧れている自分はいます。
というのも、自分自身がずっとずっと祐に畏怖の念を抱いてきたからです。また、そういう存在が常にいたからです。とすれば、そういう人間になりたいって思いますよね。
畏怖という感情(?)、あるいは、畏怖という知性(?)は、人間の高次の知的感情だと思います。
畏怖については、これからも一つのキーワードとして、考えていきたいですね。
結論
畏怖とは、近づきたい気持ちがありながらも、どうしてもかしこまってしまい、近づくことに躊躇してしまい、遠ざかり、それでも、その人に魅了されてしまうという感覚である。
…なんか、この曲が思い浮かびました。
PS
時折、言われることがあります。
「kei先生は、怖いし、すぐに怒るし、すごく勉強をしているから、近づきにくいけど、先生の講義や話はとても好きでした」、と。
僕的にも、そう言われるのが、一番嬉しいんです。
「kei先生とは、仲良くなろうとは一度も思いませんでした。でも、一番好きな講義でした」、とか。
こういう何気ないコメントの中にも、「畏怖」という感情が示されているように思います。
怖くて怖いだけの存在、
遠くて遠いだけの存在、
近くて近いだけの存在、
そういう存在には、なりたくないし、まずなれないだろうし、、、
たまたま出会ったEhrfurchtという言葉でしたが、そこからたくさん考えることができました。
DANKE!