Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

成熟した大人の愛とは?

このブログでも、何度も書いている『恋愛論』。

もうそろそろ、「成熟した大人の愛」とは何かについて、語りたくなってきた。以下、今日の某講義で話した内容です。問いは、「成熟した大人の愛とは何か?」、です。


親の愛、夫婦の愛は、<大人の愛>である。大人の愛は、感情的ではない。かといって、理性的でもない。成熟した愛である。子どもや若者が感じる恋心=ロマンティックラブではない。穏やかな愛、落ち着いた愛、変わらない愛、耐える愛、待つ愛、そういうものである。親の愛や夫婦の愛は、与える愛である。与えられることを期待しない愛である。こういう愛は、子どもには無理である。子どもは愛されることを欲するし、青年たちは自分の欲求を満たすために人を愛する。つまり、自分のために人を愛するのである。だが、大人の愛は違う。誰かを愛したい、誰かを大切にしたい、誰かのそばにいてあげたい、その人と共に何かをしたい、その人の未来を切り開きたい、という利他的な精神から、その人を愛する。つまり、相手のためにその人を愛するのである。

大人の愛は、愛されることを期待しない愛である。求めない愛である。疑わない愛である。許す愛であり、耐え忍ぶ愛である。こうした愛情は、おそらくだが、十分に愛されてきた人間だけが可能であろう-現時点では、僕はそう思わざるを得ない-。十分に愛され、大切にされ、成熟し、他人からの愛情を必要以上に欲しない人間同士・男女同士が結婚した場合にのみ、大人の夫婦の愛が成立する。一度目の結婚がうまくいかなかった男女でも、二度目の結婚ではうまくやっているという人は多い。大人の愛をきちんと獲得するためには、長い時間が必要なのであろう。

親の愛や夫婦の愛は、成熟した大人の愛である。ケアの仕事に就く人は、そういう大人の愛情をもとうと努めている人であるし、そういう人が求められる。今は、愛されることを求めてもよいが、いずれはそこから抜け出る必要はある。

なお、異性からの愛情をいくら受けても、本質的には、「愛されたい」という欲求は満たされないと思われる。なぜなら、異性からの愛情は、相手も同じように自分のことを愛してくれていることが条件となっているからである。相手が自分を好きであろうと、嫌いであろうと、無関心であろうと、それにこだわらず、とらわれずに、一方的にでもよいから、その人を大切に思うこと、大切にすること、愛すること、それを続けることが、大人の愛情である。

自分のことを好いてくれる子どもしか愛さない先生は、恐ろしい先生である。保育者もしかりである。愛情に欠けた子どもは、愛し方をしらないし、誰かを好きになること自体も否定されているので、好きになれないという場合もある。それでも、愛し続けるのが、教育愛であると思うし、大人の愛情であると思う。

夫婦の愛情もそうである。夫婦の間には、その関係をつなぎとめておく「感情」(そばにいたい、離れたくない、さみしい、自分のものにしたいといった気持ち)は、既にない。消えている。実際、既に一緒に暮らしているわけで。しかも、トキメキやドキドキもない。夫婦がお互いにせねばならないことは、「一緒に居続ける」ということだけであり、また、常に相手のことを大切にする、という地道な作業である。夫婦の愛は、許すことであり、疑わないことであり、信じることであり、耐えることであり、続けることである。お互いにそれができなければ、歯車が狂いだし、意思疎通ができなくなる。どちらか一方が、許さず、疑い、大切にせず、怒り、責め、多くを求めすぎるならば、もう一方も、辛くなってくるだろう。それでも許せれば、夫婦関係は持続する。が、たいていの人は、万能の神ではないので、不愉快に思い、関係を断ち切りたいと思うだろう。

夫婦関係を持続するためには、お互いが大人の愛情をもっていなければならない。お互いが成熟していなければならない。共に成熟し合える関係であるとなおよい。


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