この数日、ぶらりと旅をしてきました。
「旅行」じゃないです。「旅」です。
目的もなく、あてもなく、とりあえず巡る旅。
「必然」が少なくて、「偶然」がいっぱいつまったものが旅だと僕は思っています。
行き当たりばったり…
2013年、そのほとんどが慌ただしく過ぎていきました。
昨年までとは明らかに違う「いそがしさ」、「慌ただしさ」がありました。
「飛躍の年」とまではいきませんが、その予感を感じさせるような一年でもありました。
が、それと同時に、「怖さ」を感じる一年ともなりました。
「このまま行くと、自分が変な方向にいってしまう」、という怖さ。
…
がゆえに、「足元」をしっかりと見つめなければいけない、と思いました。
人間というのは、エゴイズムを満たすもの、例えば地位や名声などを得ることで堕落します。
そして、「自分は特別な存在なのだ」、と思い、虚栄心に満たされ、そして、謙虚さを失います。
ゆえに、上り調子の時にこそ、地べたに這いつくばって、浮かれないで、牙を剥いて、目を光らせる必要があります。
「僕がすべきことは何か」、と、これまで以上に問いかけながら。。。
(振り返れば、この1年ほど、自分のための勉強を怠った年はなかったんじゃないか、と思うほど)
***
それから、「現実の世界」にどっぷりと浸かりすぎていたので、少し「現実」から逃げたくもなりました。
特にこの半年は、「現実のしがらみ」の中で、ただただ忙殺される日々でした。
その「結果」は、そこそこ出せたとは思いますが、結果が全てじゃないです。世の中的には、「結果」を出すことが一番大事だと思われる節もありますが、「結果」を出すことが、僕の人生の目的ではない。所詮の僕が出した結果や成果なんて、せいぜい自分の内面に眠る虚栄心を満たすだけのものであって、本来の「人生の意味」からすれば、さほど大きな意味はもっていない。
そもそも「現実」が大嫌いな僕なので、この辺で少し現実じゃない世界に行かなきゃ、ダメになるって、ちょっと真面目に思いました。
(まー、そんな風に改まっていうことでもなくて、ただ、旅がしたくなった、、、と)
今回、どうしても訪問したかった県がありました。
これまで38年間の自分の歴史の中で、一度も踏み入れたことのない県。
歴史的にもとても重要であり、かつ独自のラーメン文化も根付いている県。
それが、「高知県」でした。
かつてから高知には行きたい行きたいって思っていました。が、いかんせん、遠いですし、それ相当の覚悟を決めねば・・・(苦笑)
(これから年末年始にかけて、怒涛のブログ更新します。高知~徳島のラーメンをかなり食べ歩きました!)
人生的な旅とラーメンツアーをセットにした素敵な時間となりました。
しかし、それはまた、思索と煩悩のある種のコンフリクトを感じる時間でもありました。
僕が、今回の旅で一番鳥肌が立ったのが、「空海」との邂逅でした。
もちろんその名は聞いたことがありますし、彼の歴史的価値についても学んではきました。
が、彼が19歳の時に、高知の室戸岬に行き、そこで修行を重ね、「空海」という名を名乗るようになった、ということは知りませんでした。
空海は、若かりし頃、この室戸岬に住まい、そして真理へと目覚めていきます。
室戸岬は、本当に孤独な地であり、日本に残された辺境の一つのようにも思いました。
空海が若き日の頃、引きこもっていた場所が、こちらの洞窟(洞穴)でした。
完全なる洞窟でした。奥行はありませんでした。が、住まう場所としてはとてもいい場所のようにも思えます。
1000年前のことです。今でさえ、民家はほぼないエリアなので、当時は本当に人はいなかったのでしょう。
誰もいない場所で、世の中から離れ、孤独に、ただ修行をする日々…
19歳の若者が、一人(あるいは説によれば、連れ添いのおばあさんと共に)で、苦行を行う、というのは大変なことです。
今の19歳は、人にまみれています。学校があります。バイトがあります。社会があります。恋愛があります。
一人になる時間なんて、ほぼないに等しい。
それでいいのか、と思います。
一度、世の中との関係を断絶して、完全に一人になって、思惟し、苦行に耐える。
そういう文化や伝統は、この国にもあったわけです(全員でないにしても)。
若い時に、奢侈、耽溺を知ってしまうと、その後の人生が悲惨なものになります。
若者は、その存在様式からして、奢侈や耽溺に惹きつけられやすいわけですし、またそういう欲望に満ちています。
けど、若者だけではありません。現代人が皆、贅沢や欲望を肯定し、それを享受しています。
「ストイックに生きる」という言葉に、今や輝きはほぼないのかな、とも思います。
大人になれば、もうそれは、日々、我慢と忍耐と妥協の連続です。
嫌なことばかりの日々に耐えて、とにかく生きていくためだけに働き、そして、高い志を失っていきます。
しがらみも多くなるし、自由とは真逆の方向に向かって自分を縛り付けなければなりません。
そういう意味でも、19歳くらいの時期にこそ、そのための準備というか、修行をする必要は今もあるのかな、と。
真っ暗闇の洞窟の中に、差し込む一筋の光。
その光の先に見えるのは、まさに「空と海」。
空海という名前の由来そのものを見て、直に感じることができました。
(即身成仏をめぐるとても興味深い話もじっくりと聞くことができました)
僕的には、「煩悩は完全には捨てきれない。けれど、煩悩と向き合うことはできる」、と学びました。
自分の中にある煩悩を見つめ、それとどう対峙していくか。
エゴイズム、虚栄心、利己性、欲望、嫉妬・妬み、やっかみ、承認欲求…
他の人がどうかは知らないけれど、僕の中にはそういう煩悩でいっぱいです。
108回鳴る除夜の鐘も、そろそろ響き始めます。
今回、改めて、日本の自然の凄さに圧倒されました。
そして、自分の小ささと真剣に向き合いました。
煩悩の塊である自分自身を恥じましたし、悲しくなりました。
僕はまだまだ煩悩に支配されただけの人間なんだな、とも。
と、同時に、ラーメンの食べ歩きをしていて、「本当に自分って、煩悩の塊なんだな」、とも。
でも、すごい困惑するのは、「食べたい」という食欲の原理に従って食べ歩いているわけではない、という点です。
食べたいというよりは、知りたい、という知的好奇心の原理に基づいています。
でも、それとて、欲求であることには変わりない。
しかも、よりやっかいなのは、「ブログに記事を載せたい」、「こんなにラーメンを食べているんだぞ、と誇示したい」、「全県制覇したい」、「ラーメンフリークDr.keiの価値をより高めたい」、と自分が思っている点にあります。
まだ、「食べたい」と素朴に思っている方が、素朴だし、虚栄心としてもそれほどでもないですよね。
自分って、つくづく欲深いなぁと思うしかありません。。。
「探究心」といえば聞こえはいいけど、煩悩の一つの現れに過ぎない、とも言えるわけで。。。
2013年ももうあと二日でおしまい。
いろんな意味で、人生の節目となった一年でした。(しみじみ)
色々と反省…