Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

2012年度初の第四土曜日の会★ 徹底保育実践討論!

今年度初の第四土曜日の会、無事に終わりました 

今回は、Y先生も参加してくれて、いつもより白熱討論になりました。  

今回は、一つの文章と三つの事例を検討しました。 

①乳児院から養子縁組で女児をひきとったファイナンシャルプランナーの母の子育て論 

虐待されたり、愛されないで育った赤ちゃんを育てる乳児院。そこの赤ちゃんを語る時に、日本ではどうしてもネガティブな側面が強調される。そして、養子となった赤ちゃんの子育ての難しさがことさら強調される。それを完膚なきまでに吹き飛ばすあっけらかんとした文章を読んで、議論しました。そして、アメリカ型の子育てが、こうしたネガティブなイメージをぱこーんと吹き飛ばしてくれる、ということを確認しました。 

もっと、保育者たちは、親に、ポジティブで、気ままな子育ての可能性を見せてあげてほしいな、と思います。親なんて、しょせん、子育てなんぞ一度か二度きり。それが終われば、はい、おしまい。毎年、たくさんの子どもをしっかりとみている保育者だからこそ、親にもっともっと楽しい子育ての方法(あるいはそういう仕方)を、示すべきかな、と。 

②わたしがやる! 

えみさんが先月の事例を書き直して、発表してくれました。ずいぶんとよくなった。やはり、事例も書き直すと、深みが増してくるなぁ、というもの。子どもの主体性をどこまで尊重し、どこまで許容するか、という悩ましい問題。それに、縦割り保育の現場、しかも、代理という立場で、どこまでやれるのか、という話について語りました。 

「先生、それ、私がやりたい」という子どもからの働きかけにどこまでこたえられうるか。これはとても難しい問題。特に、個人情報の取り扱いにかかわるものを、子どもにどこまで任せてよいのか、という問題。解決策はないけど、とりあえずは、ベースとして、その子どもの働きかけに応じて、保育者が見れる範囲で、それを尊重するべきかな、という、まー、無難なところで終わった感じもします。 

が、Y先生とトークバトル。Y先生は、「そういう積極的な子どもだけじゃなくて、みんなに働きかけて、みんなが主体的にできるようにすることが大事」と言う。それに、僕は同意できなかった。「いや、先生が、子どもに、こちらからの意図で、やりたいと思わせるような働きかけをすることは、主体性の育成にはつながらないのでは?」、と。 

自らが率先して何かをしようとする子どもを育てるとき、それを保育者が先導していいのかどうか。Y先生は、そうすべき、と。僕は、そうではなく、自ら動くのを待て、と。 

Y先生と僕の考えは、ずれてたほうがいい。どちらが正しいかは、それぞれの保育者が考えればいい。この会の面白さをひとつ見つけた。Y先生vs僕、というバトル。それを聞いて、参加者たちがまた悩めばそれでいい(漠) 

③0歳児の保育の現象学(?!) 

久々に、目の覚めるような素晴らしい記録に出会えた。ゼロ歳児と保育者の生きた関係を見事に丁寧に描写していた。まさに、現象学的記述になっていて、Y先生も僕もかなり興奮した(はず)。この記録はほんとよかった。これから、これ、教材にすること決定(本人の意思なんぞ、聞くかい!(苦笑)) 

ゼロ歳児の赤ちゃんの保育は、多分、最も難しいことだと思う。まぁ、体力的には4,5歳児ほどハードではないけど、最も弱い存在であるから、目を離せないし、何をしでかすかわからない。そうとう、神経を使うはず。しかも、何かを言ってはくれないからね。 

で、そんなゼロ歳児と保育者の日常的で素朴なかかわりから、ゼロ歳児の学びと信頼関係の成り立ちとその瞬間を描いたのが、この記録だった。 

ゼロ歳児が保育所にある哺乳瓶をまさぐり、保育者の手をまさぐる様子から、対象認識の始まりと、保育者との関係の始まりを読み取っていった。が、議論になったのは、ゼロ歳児の「対象認識」の中身の問題。ゼロ歳児は、はたして「空間知覚」をしているのか。具体的には、「形」や「大きさ」や「質感」を学んでいるのかどうか。これは、みんなの意見が割れた。 

それから、この事例から、愛着関係の成立が言えるのかどうか。それ以前に、このかかわりが愛着(=アタッチメント)とそんなに単純に結び付くのかどうか。僕的には、この事例から、愛着と呼べるような何かが起こっているようには読めなかった。 

それから、これはブログで独立した記事にしようと思うけど、「人間の人生の始まりにおける各赤ちゃんの経験の違い」がすごい気になった。 

ざっくり書くとこういうこと。 

ゼロ歳児といっても、いわゆる「平和な専業主婦」にもっぱら育てられる赤ちゃんと、保育所に預けられる赤ちゃんとでは、そもそも経験の中身がずいぶんと違っている。 

保育所に預けられる赤ちゃんは、ゼロ歳児の段階から、母親以外の人間と日々かかわらなければならない。ゼロ歳の時点から、外界との「適応」が求められる。赤ちゃん自身も、保育所や保育士に必死に適応しようと頑張る。これは、両義的で、適応能力が育つ一方で、ゼロ歳児から適応することが強いられている。 

家で母のみに育てられる赤ちゃんは、そういう努力をしないですむ。見知った特定の他者に存分に甘えればいいし、慣れた場所で、慣れた仕方で、日々を安心して過ごすことができる。適応能力は育たないかもしれないが、基本的信頼感は存分に得られる。 

この両者の違いは、のちの人間形成に大きな影響を与えるように思う。母親とその周辺のみの人間に育てられた人は、それほど適応に固着しないのではないか。逆にいえば、ゼロ歳児から保育所で育った赤ちゃんは、過度に適応することに努めるのではないか。 

それが、後の人生において、かなり「生き方の違い」となって、あらわれてくるとしたら? 

大人でも、自由気ままに適応せずに生きていく人間と、まわりに適応し順応しようとする人間との二種類のタイプがいる。 

適応を強く欲する人間は、後に、生きづらさを感じやすい。適応することは、それ自体が大変なことだから。 

そこまでざっくりと人間を二種類に分けるのはやや無理があるけど、ゼロ歳児において、既に、適応しない赤ちゃんと、適応せざるを得ない赤ちゃんがいる、ということには、何らかの意味があるように思えてならない。 これは、僕の一つの大きなテーマになりそうだな、と思った。 

④老人ホームの介護と保育の接点を探る

おそらく、僕の教員人生で、こいつほど僕からすべてを学ぼうとした奴はいないんじゃないか?という(mixiネームで)薫里くんの介護者人生初の事例発表を聞きました。

まー、薫里くんワールド炸裂で、もう、笑うしかなかったね。よかったです。このまま、邁進してくれ。それでいい。 

ただ、彼の情熱的な文章は、みんなに届いたんじゃないかな。いい意味で、みんなに刺激を与えたと思う。これは、嬉しいことだった。「もっと、みんな書くことに力を入れてよ」って、心の中で思っていたから。忙しいのはわかる。けど、それでも書くこと。書いてわかってくることって、いっぱいあるから。 

考察も、まー、突っ込みどころ満載だけど、あそこまでみんなが考察できたら、もっとコアな会になるだろうね。そういう意味でも、彼の存在はでかい。(まー、相変わらず、空気読めないけど…苦笑) 一つだけ言うとすれば、もう少し関心を自分に向けるのではなく、目の前の人に向けてほしいかな、と。自分の反省じゃなくて、他者への反省へと、視点を変えると、もう少し、深く描写できるんじゃないかな?? 

と、こんな感じで、たっぷり4時間、議論しました。 

こりゃ、面白いぞ。 

いつになるかわからないけど、この会での取り組みは本にするつもり(野心満々)。僕の教え子たちが事例を書いて、保育のいい事例を掲げて、それにたいして、僕とY先生がお互いの立場からコメントをする。もちろん、Y先生と僕の見解は違うものになる。おそらくは、まったく逆の見解を示すことになるだろう。読者は、その記述から、保育の中身を自分で考えねばならない。うーん、なかなかエキセントリックな本になりそうだ。 

今回は、第四土曜日の会(かつては第三日曜日の会)、最初のメンバーが結構揃って、また、新たに二人の卒業生がやってきてくれました。 

ただ、今回も在校生はゼロ。うーん。どうしたもんかなー。 もう少し、呼びたいんだけどなー。来ないんだよなー。 

…そりゃ、そうか。呼びかけてないんだもんな。。。(忘れてた) 

ま、でも、こんな感じで、だらりだらりと議論をしながら、のんびりやっていけばいい。 

それなりに、いい会になってきているんじゃないか?! 

 

以上、mixiからの記事を一部変更して掲載しました。

***

次回は、5月26日(第四土曜日)、16時~です。

常連の人も、ご無沙汰の人も、初めての人も大歓迎です。

お待ちしています☆

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