Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

避難する自由と留まる自由

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111214k0000m040128000c.html

これはとても悩ましい問題で、かつ、極めて論争的なテーマだと思った。

今の僕なら、どんな状況下であっても、自分の家に留まりたいと思うだろう。死んでもいい。家から離れて、人知らぬ人と避難所生活をするのは、非常に辛い。それならば、被ばくしたとしても、家に留まっていたい。個人的には、僕的にはそう思うと思う。自分の土地なんだし、自分の家なのだから、そこに留まることは認めてもらいたい。

けれど、それを認めてしまうと、きっと多くの人がそう思い、留まることになるだろう。誰だって、自分の家がいいと思うはずだから。実際にはどうなのかは分からないけれど、きっと少なくない人たちが、自分の家に留まることを選択すると思う。そうすると、国側としては、国民の安全を守れないことになり、国民の被ばくを認めてしまうことになる。それはできない。

ちなみに、原子力災害対策特別措置法というのがあって、これが災害時のルールとなるみたいだ。

http://www.bousai.go.jp/jishin/law/002-1.html
http://www.bousai.go.jp/jishin/law/002-3.html
ウィキペディアのページ

まー、よく読んでも、よく分からない(汗)。

とりあえず、この法律が「原子力災害から国民の生命、身体及び財産を保護することを目的とするもの」であることは分かった。つまり、国民の生命、身体、財産を保護する法律だということになる。

が、生命や身体を保護する法によって、自分たちの生活が厳しく制限されるとしたら、それは「保護」になるのだろうか。僕なら、生命よりも、生活を大事にしたいと思う。それは、許されないことなのだろうか。居心地の悪い場所で暮らし続けるくらいなら、居心地のよい場所で死ぬまで気ままに生きたいと願うことは、彼の言う「自分勝手」なのだろうか。彼の言葉、「命を守るために法律で避難させていることは理解できる。しかし、何十年も避難するぐらいだったら、自分は短い間でも生まれ育った富岡で過ごしたい」というのは、僕には、自分勝手な言葉だとは思えない。切なる言葉だと思う。僕も同じ立場なら、同じことを思うと思う。

だから、現地対策本部の「強制退去させることも可能だが、住み慣れた土地にとどまりたいという住民を無理やり追い出すのは難しい」という発言も、ものすごく苦しいながらに、真摯な言葉だと思う。

この問題に、正しい/間違いはない。どっちが正解で、どっちが誤りというわけでもない。言ってみれば、どちらも正しいのである。

千葉に住む僕は、今や、(見た目的には)これまでと何も違わない生活をしている。こうやってネットを使っている時点で、電気の恩恵を被っている。松村さんの言葉が僕に襲い掛かる。「東京のために発電してたのにさ、今じゃ電灯の一つもつかないんだからな」。今も電気のないところで、生活をしている松村さん。その一方で、こうやって電気の恩恵を被りながら、普段と変わらない日常を送っている僕ら。同じ日本にいながら、同じ日本人でありながら、全然違う生き方をしてしまっている。(かといって、僕にどうすることもできないけど)

ただ、僕が松村さんの立場だったら、きっと同じことを思い、感じ、同じように残ることを望むと思う(実際にはできないかもしれないけど)。

けれど、そこには、≪選択の自由≫はない。自分たちの生活の問題であるにもかかわらず、だ。生命の保護と生活の自由(住居選択の自由)が対立するというのは、僕の中ではあまり前例を見ない。今回のこの記事は、まさに、生命VS生活という極めてゆゆしき問題を描き出していると思う。英語的には、Life vs Lifeなんだけど。

僕の立場からすると、生活という基盤の上に生命があると考えるので、松村さんの選択を強く支持したいと思う。けれど、それが正しい選択なのかどうかは分からない、としか言いようがない。

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