Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

日本人…

面白い文を見つけた。

ヨーロッパの人びとはほんとうのことをいったり、うそをついたりするが、日本人はほとんどうそをつかない。しかし、彼らはほんとうのことをいうなぞ、ついぞ考えもしない

これは、ボブ・ダンハムという人が言った言葉らしい。『日本人になる方法』という本の中の一節だ。

引用元は、『サクラと沈黙』という本で、フセヴォロド・オフチンニコラという人が書いたもの。

長年、思っていたことが言葉で言い表された気がして、すっとした。

よく、日本人は、本音と建前を分ける、と言われている。が、本音と建前、表と裏なら、ヨーロッパ人の方が得意じゃないか、って思っていた。ヨーロッパ人って、表向きの顔が得意だし、社交場で本音を出すこともほとんどない。表面的なかかわりがすごい上手いなぁと思うこともしばしば。

日本人もたしかに建前的なものはもっていると思う。けれど、どうしても、僕には、ヨーロッパ人ほどに、建前と本音が区別されているようには思えないのだ。建前が建前になりきっていない。建前を演じ切れていないというか、演出しきれてないというか。

ほんとうとうそ。それで考えると、日本人は、どの場面でも、うそ=いつわりの表情を作らない。だけど、かといって、ほんとうの表情でもない。いつでもあいまいな表情なのである。オフィシャルな場でも、非オフィシャルな場でも、日本人はあいまいなままだと思う。だから、うそはつかない。けど、ほんとうのことも言わない。オフィシャル・プライベートが明確に区別されきれていないのが、日本人なのだろう。

いや、そもそも、本音なるものがないのが、日本人なのかもしれない。本音がないから、建前も演じきれない。本音がない=自分がないという文脈で考えてもいいかもしれない。西洋の言う「自己」があいまいなのが日本人だ、というのは、木村敏さんをもちだすまでもなく、その通りだと思う。

友だちという存在への信頼=依存も、日本では顕著だと思う。とある学生が言っていた。「友だちには本音で話す。その本音と親に話す本音は一緒。変わらない」、と。本音なるものを、どこまで解放させるか。ヨーロッパ人は、家族に見せる顔と、外に見せる顔をかなりはっきりと分ける。内と外。日本人は、内と外をあまり明確に分けない。どこまでが内で、どこからが外なのかも、はっきりとさせない。

外に対して、いつわりの自分を演じる、というのは、内が明確になっていることを前提とする。その内が不明確な場合、内と外の間にグレーゾーンができることになる。そのグレーゾーンの生き方を、内外問わず、そこに適用しているとすれば、日本人はグレーゾーンでの人間関係を常に生きているということになる。

だから、うそはつかない、けど、ほんとうのことを言うこともない、という変な在り方が可能なんだろう、とも思う。ヨーロッパ的には、内と外に明確な区別を与え、白黒はっきりさせて社交的にふるまうことを善しとするけれど、日本的に考えると、そこまで白黒はっきりさせないで、まあまあの精神で、グレーに生きていくことを善しとする。

日本人の僕がいうのもなんだけど、日本人って不思議な生き物だと思う。

***

僕的には、「ヨーロッパ人は、相手を攻撃することを得意とするが、日本人は、相手を攻撃することをせず、自分を攻撃して、自爆する傾向が強く見られる」っていうのがあるかな。

日本での他殺率は、海外よりもかなり低いと言われている。けれど、自殺率は世界ワーストトップクラスだ。日本人は、他者に対してあまり攻撃性をみせない。けれど、自分への攻撃性は世界的にもかなり強い方だと思われる。それがいいことなのか、悪いことなのかは分からないが、日本的だとは思うかな。

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