Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【翻訳】ギリシャ時代の高等教育2-アテネのアカデミー創設!

【翻訳】ギリシャ時代の高等教育-ギュムナシオン- の続きです。

ギュムナシオンから、ソフィストたちの登場、そしてソクラテス、プラトンの誕生までのお話です。こういう話ってホントあんまり聴かないので、とても新鮮でした。


ギュムナシオンの基盤となった若いギリシャ人の高等教育の頂点にあったのは、彼らのレトリックの能力を完全に仕上げることだった。もし自由な男性が一群となって官公庁に行ったならば、語ることができること(Redenkönnen)が明らかに求めたれた。古ギリシャの貴族社会からアッティカ的デモクラシーへの移行と共に、その人の由来や財産と並んで、公の場に上手に登場することが社会的地位や政治的影響を決定づけた。それゆえ、言葉のマスターとそれに続く正しい語りの習得がさらにいっそう重要になった。また、例えば法的な争いの中で見られるプライベートな問題において自らの意思を貫き通そうとする者も、自分の訴えを論理的にはっきりと主張することを心得ておかねばならなかった。簡素に言えば、「意見の多様性によって特徴付けられ、興味・利害の多元性によって支配された社会に属したのは―そして今もなお属しているのは―、完全に根本的には語りなのだ」、ということなのである。あらゆる都市に存立する集会ホールも、考え抜かれたコロネード(柱廊)も、またギュムナシオンもますますいっそう、語りや対話の文化を顧慮するようになった。したがって、古代のギリシャでは、読み書き算といった基本的教育(授業)や、身体教育・音楽教育ならびに文学を中心に置いた高等教育(授業)と並んで、教育の最も高等な形式のようなもの、つまりいわゆる領域や段階に基づく訓練に結びつくもの、そしてそれらを凌駕するもの、すなわち完璧に学問的で、語りの技術に基づいた教育が登場したのである。

とりわけここで挙げねばならないのが、ソフィストたちである。彼らは、5世紀後半に登場し、人間を完全に中心に置く彼らの哲学(「人間は万物の尺度である」)によってギリシャの知的生活に決定的な影響を与えたさすらいの知的集団たちであった。アプデラのプロタゴラスとレオンティノイのゴルギアスの名は今でもなお有名である。このソフィストたちは若者たちを集め、しっかりと学べる者に対して、自分たちの普遍的な教養を伝え、雄弁に語る技術を彼らに教授した。「伝達し得るものは教えることができるし、教えなければならない」というのがソフィストたちの確信であった。

ソフィストたちの教授法は、もう一つの別の考えと真っ向からぶつかった。そのオルタナティブ(別の方法)は、哲学者ソクラテス(470-399)と彼の教え子たちが提唱した方法であった。その教え子の中で最も重要な存在がプラトン(427-347)だった。ソクラテスは、「学ぶ者が自分自身そのものから認識することができないことを、学ぶ者に何も教えてはならない」という前提条件に基づく対話的方法を築いた。彼において授業とは、生徒と教師が共に探求する論争的な事柄に貢献するより対話的な契機なのであった。生徒は、探求される諸関連を思い浮かべ、説明を受けることで学ぶのではない。むしろ、生徒が教師に与えられた問いを通じて、いわば自分自らのうちか事柄のうちでその答えを発見することで学ぶのである。この原理は、プラトンによって伝承された有名なソクラテスの対話の中で模範的に示されている。

このように、すでにその始まりにおいてわれわれは二つの拮抗する対話的-方法的な試みを-今日に至るまではっきりと-知ることができよう。そう考えると、近代の授業の歴史はこの時点から始まることになる。また、上のプラトンこそが、387年、最初の哲学アカデミーをアテネに創設し、ギリシャ教養の最も高次の形態に場所を与えた人物であり、このアカデミーから、ギリシャ教養の影響力がさらに増していくことになったのである。

ソフィストとソクラテスの激突は、そのまま今の教育の問題に含まれているように思われる。くだくだとまくしたて、相手を説得させる技術を教える教育と、教師と生徒が共に同じ問いにぶつかり、共に答えを見つけ出していく教育。

どっちがいいかは、各人に委ねることにしよう!

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