【Dr.keiの研究室2】でも、また色んな翻訳を掲示していきたいと思います。ご意見・ご感想聞かせていただけると嬉しいです。
今回は、一度翻訳したことのある【Die Liebe(愛)】という本の一説。この本のテーマは、【敏感な人間=愛の能力のある人間】というもので、感受性や感性を特に重んじている人の文章だ。愛への感覚に近い感覚で、美というのがある。美への感覚をみても、その人がどんな人間であるかが分かるかもしれない。また、最近、僕らの国のトップのお方が「美しい国」という言葉を頻繁に使っているが、その「美」とはどんな美を言っているのか。彼にとって、美とは何なのか。是非聴いてみたいところだが。。。
こんな内容でした。
美は、好みの問題なのだろうか。また、個々人の問題のようなものなのであろうか。あるいは、高次の美なるものがあるのだろうか。この問いに答えることはとても難しい。
その時々の流行にさらされ、ある一定期間の間、多くの同時代の人間に認められる美の理想像はある。さらに、その理想像は、何が美しいものと見なされるのか、何が美しいと知覚されるのか、ということについての暗黙の一致を決定付けるのである。
もしわれわれが自分たちの美的な価値尺度をそのつどの時代の様々な規範(Normen)から導き出しているとすれば、その美の評価は、検閲官としての理性(Verstand)と結びついていることになる。
しかし、われわれは美を自分たちのために完全に一人きりで、しかも個人的に見つけ出すこともできるのである。この場合、われわれは、自分たちの感性(Sinn)を敏感にしなければならない。
敏感な人間(der sensitive Mensch)は、美を自分自身のために経験することができる。もちろん、さまざまな規範や美的な尺度の影響を受けることもないし、そういった規範や尺度によって遮断されることもない。
敏感な人間は、現在(Gegenwart)に自分自身を明け渡す(現実に心を開く)。そして、自分自身の感覚を超えて、その瞬間そのものの中に没入してしまうのだ。このとき、理性は、静かになってくれる。そして、さまざまな評価を持ち出してきて、あれこれと口を出すのをやめてくれる。
思考が静まり、感性が目覚めたならば、その時、その感受性と観想(Kontemplation)の内で、メディテーション(瞑想/黙想/黙考)が生じるであろう。このメディテーションの状態で、私は美を体験することができる。その美は、これまで自分では気付いていないままであったような美なのだ。というのも、この美は、騒々しさと人を鈍感にする作用を伴う理性が覆い隠していたものであったからである。(理性Verstand=騒がしくて、ざわめいていて、落ち着かないもの。人を鈍くし、鈍感にし、人の輝きを奪いさるもの)
なかなか僕好みの文章だ。特に、理性が静まり、現在目の前にある対象の中に没入してしまう、という発想は、的確に美を表現しているように思う。美しいものを見たとき、僕の思考や判断は一気に取るに足らなくなり、ウンチクをたれる気も起こらなくなる。ただ、溜息というか、吐息というか、感嘆というか、そういうものしか内から出てこなくなる。そして、ただただ対象の中に入り込み、その世界に没頭してしまう。
現代社会の美は、どうも「理性」で構成されすぎているように思えるし、また、美を語る人間も、理性的に考えすぎるあまりに、その本質を捉えきれないでいるようにも思う。鈍い人間が美を語れば、その美は陳腐でつまらないものになってしまう。美の貧困、これはあると思う。だが、「美しい国づくり」というのもどうかと思う。やろうとしていることは分かる気もするが、やっぱり無理のある施策のような気もしなくもない。
もっと恐いのは、美が一義的に規定されることである。「美とは~~である」と規定された瞬間から、僕らの主体的な美感は否定されることになる。美とは世界と自己との不断のかかわりの中から自ずと生じてくるものなのに、美が規定されることで、外側から美が強制されることになってしまう。これが一番恐ろしい。さらに恐ろしいのは、そうした美の強制が無意識的に(サブリミナルに)行われることであろう。人間がもし本来的に自由であるならば、美の判断も自分自身で下さなければならない。美の判断が他からの強制によって行われるとすれば、それは、主体性の放棄であり、主体性の忘却であるだろう。
ま、庶民の僕としては、美しいなあと思う瞬間を大切にして生きていこうかな~と思うくらいなものか。美しいまでに美味しいラーメンを食べたときのあの没入感はホントたまらないのだ。うんちくを語ることができないまでのラーメンこそが最高のラーメンなのだ。とすると、美とは、語るものではなく、受け止めるものなのかもしれない。