Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

生と死

明日(もう今日か…)は、おじいちゃんのお通夜。

超高齢のおじいちゃんだったから、そんなに悲壮感はないものの、やはり人の死というのは、直面したくない。死は、生きる者にとっては、やはり目をそむけたいもの。死という現実から逃避したいし、認めたくないし、受け入れたくない。

幸い、僕の両親はまだ元気に生きてくれている。でも、いつかお別れする日はくる。そんなに遠くもないだろう。親だけじゃない。予想しないときに、予想しない人の死の報告も受けるだろう。いつでも、人間は悲しみと隣り合わせなのだ。ただ、それをうまくごまかして生きているに過ぎない。

他人の死ではなく、自分の死だって、いつかは必ず来る。自分が死んだらどうなるのか。どこにいくのか。どうなってしまうのか。この問いは誰にも答えられない究極の問いだ。この世に生きる者は誰も知らない。「死んだらどうなってしまうのか」。

知らないがゆえに、怖い。

人間にとって一番恐ろしいのは、「分からない」ということだ。分からない、ゆえに恐れるのだ。分かっていれば、怖くはない。分からないからこそ、不安になるし、おびえるし、生きようと欲してしまうのだろう。

自分が死んだら、別に泣いてもらいたいとは思わない。ただ、誰かが自分の意思や精神を受け継いでくれたらいいとは思う。でも、誰にも受け継いでもらえなくもいいかなとも思う・・・

死との対話。

自分的には、まだまだだなぁって思っています。

コメント一覧

Ayawo
身近になってきた
今の日本では、病院etc.自宅ではない場所で死を迎える人が多く、
そのことが「死」を身近に感じられない位置付けにしてしまった
のではないかと感じています。

何故か私は、子どもの頃から輪廻転生があると思っていたので、
死は怖いものではなく修行(=今世)の卒業と捉えていました。

実際、私自身が生存率に係わる病を患い、身内の何人かが
死にかけたりしましたが、その考えは変わらなかった。
むしろ、確信を得たぐらいです。

確かに、残される側は辛いですが、それを乗り越えていける強さを
基本的に人間は身に着けていると思うのです。

良い意味で死を意識すると、無駄な事柄が見えてきます。
不思議ですね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「あてどなき日々(日記)」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事