Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

無音の不穏-忍び寄る国家権力と僕らの生活 …あの日から一年

戦争を望む人はいない。反戦は僕ら日本人の永遠のテーマ。被爆国、日本。

僕の思想の根底に、『はだしのゲン』がある。この漫画は、僕のバイブル。小学生の頃から、ずっと何かがあるたびに読む。それから、石ノ森さんの『人間の條件』という漫画(本当は原作を挙げるべきなんだろうけど)。この二つの作品は、僕の根底にある。

二度と、戦争を起こしてはならない。国家的殺人行為を認めてはならない。絶対に。戦争だけは、どんなことがあっても、肯定されてはならないし、それを認める「寛容」も受け入れられない。

この考えを否定する人とは、完全に相容れないし、対話もできない。唯一、僕が受け入れられないのは、「戦争肯定」。どんな場合にも、戦争だけは肯定できない。

けれど、いつの時代も、「戦争やるぞ~」と言って始まる戦争はない。真実的には、知らぬ間に、有無を言わせないかたちで、戦争が始まるんだと思う。どんな政治家も、「戦争します」とは言わないだろうし、誰も、「戦争やろうぜ」とは言わないと思う。

気づいたら、始まっていた。そして、無言の圧力と共に、皆が、ゲンの父親を攻撃したように、「反戦」を唱える人を非難するようになるのだと思う。女、子どもは沈黙し、男は戦地に向かうことになる。「空気」がそうさせるのであって、「誰か」がそれを促すのではない、という奇妙な構造をもちながら。それは、アーレントの描くアイヒマンにも見出せると思う。

http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20091111/p1

1945年に戦争が終わり、67年が経とうとしている。もう、戦争の記憶を鮮明にもっている人は少なくなってきている。そして、その戦争への危機感もなくなりつつある。僕自身、「もう、戦争は起こらないのかな」とも思う時もある。「グローバル化」という言葉が躍る。けれど、今も世界は一触即発の状態にある。先日、ドイツでイラン出身のタクシードライバーと語ったが、かなりの危機意識をもっていた。自分の祖国が戦争をするのかどうか、とても気がかりだ、と話していた。

かつて、アメリカの友だちと議論になった時も、「日本は俺達が守っているんだからな」、と言われた。本当に有事になったときに、アメリカが助けてくれるのかどうか、それを本当に知っている人はいない。「戦争は起こらない」、と思うが、それは「日本側からは仕掛けない」ということであって、他国からの攻撃を受けた場合に、開戦しないという保障はない。どうなるかは、誰にも分からない。でも、そうなってしまったら… 想像するに、恐らくは… いつ、どんな形で、戦争になるのかは、誰にも分からない。きっと太平洋戦争の時も、そうだったのだろう。

日本史、世界史問わず、人間の歴史は、戦争の歴史でもあった。


ここで、「戦争反対!」と訴えたいわけではない。どうもこの数年で、「戦争」が肯定されるようなバックグラウンド(背景)が整いつつあるように思えて、怖くなってくる、そのことを記しておきたいのだ。…肯定というよりは、戦争に至ってしまう前提条件ができつつあるように思えてならない。

①政治的カリスマへの期待と失望の繰り返し

小泉さん、管さんは絶大な人気を博した。が、小泉さんは「規制緩和=格差肯定路線」の戦略をとり、熱狂的な人気とはひきかえに、大きな傷跡を残した。管さんは、色々なことが重なり、高い支持率は急低下した。そして、今は橋下さんが「カリスマ」となって、絶大な支持を集めている。橋下さん自身も、「この人気はいずれなくなる」と分かっており、数年で政界から去ると表明しているが、それくらいファナティックな盛り上がりを見せている。

問題は、「政治的カリスマ」が誕生しやすい状況下にある、ということ。僕個人的には、橋下さんがそんな大それたことをするとは思っていないけど、彼に象徴されるような「ファナティックな支持」が起こるだけの条件が整っているということは疑いえない。みんなが「不満」をもち、「怒り」を抱き、将来に「不安」を抱えている。

それは、次の記事からも読みとれる。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120310-OYT1T00651.htm?from=main1

「うなぎ登り」という言葉が、まさにそういう「カリスマ」を生む土台となっているように思うのは、僕だけだろうか。かつてのヒトラーも、その当時は、絶大な支持を受け、ドイツ人たちの救世主として熱烈に支持された。それは、僕自身、ドイツ人の親しいおじいちゃんから熱く聞かされたものだった。

②国家権力の国民への介入の強化

この条件は、いたるところで確認できると思う。ちょっと個々に脈略はないが、色々挙げてみたい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120307-00000669-yom-soci

大学生が勉強するかどうか、それは個々の学生一人ひとりの「自由」である(はず)。なのに、文部科学省の諮問機関である中央教育審議会が、大学という教育の場に介入し、「勉強させよ」と命令する。「国が尻を叩く」というと聞こえはいいが、国家が大学に口出しする、ということが起こっている。「学問の自由」でも、「教育を受ける権利」でもなく、「勉強の強制」である。それが、「当然」の如くに語られてしまうところに、怖さがある。

③国家組織への過度な信頼と期待

今日(厳密には昨日)、次のようなニュースがあった。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120310-OYT1T00586.htm

ちょうど一年前のあの大震災の時、たしかに自衛隊の人たちは、懸命な働きをしてくれ、多くの人が救われた。それは紛れもない事実だろう。先日、テレビ番組でそのことが詳しく描かれていた。本当に大変だっただろうし、本当に多くの人が彼らに救われた。それを否定する気は全くない。が、上のニュースで報じられている、自衛隊への支持・信頼が90%を超えるというのは、ある見方からすれば怖いことではないか。自衛隊が怖いのではなく、自衛隊支持者層が9割を超える、ということが怖い。つまり、「民意」が怖い。

自衛隊法第三条に、「自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」、とある。昨年の自衛隊の活動は、この「公共の秩序の維持」に当たるものであり、それを指示したのは、内閣総理大臣だ。(*同法第七条に「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する」とある)

警察官が市民を守り、消防士が火災を守り、裁判官が裁判を守るように、自衛隊員も与えられた任務を全うした、ということであって、本来の任務を行った、ということではないのだろうか。その本来の任務に感謝することはあっても、支持率9割というのは、何らかの飛躍があるように思えてならない。(僕がどれだけ身銭を切って教育や研究を必死にやっても、9割支持にはならない!!)

気になるのは、こうした「国民」、「市民」、「民衆」の画一化、あるいは一本化だ(あるいは、異なる意見や思想の排除や弾圧)。

それをさらに強く予感させるのが次の条件だ。

④政治による教育(教師)の統制の強化

http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E2EBE2E78A8DE2EBE2E1E0E2E3E09191E3E2E2E2;av=ALL

このニュース自体、ある程度予想できたことであり、これ自体について、是非を問うことはしないでおきたい。が、気になるのは、このニュースに対するみんなのリアクションだ。

教師の不起立の問題は、90年代に浮上してきた問題であり、実際に本格的に取り締まり・弾圧が起こるようになったのは、ほんとごく最近のことである。つまり、教師が反発を強めているというよりは、取り締まり・弾圧が強化されつつあるということなのである。

http://www.kiwi-us.com/~selasj/jsc/japanese/bulletin/no139/bujp139_1.html

この文章は、(それ自体やや偏りがあるものの)じっくりと読んでもらいたい。なぜ一部の教師(それも高齢の方)が、裁かれることが分かっていて、なお不起立という道を選ぶのか。そこには、歴史的な、そして若い世代が忘れつつある「戦争への否定」という思想・信念があり、一般に言われているように、ただ「命令・規則を守れない」以上の理由があるのだ。

こうした理由を理解したところで、先の「みんなのリアクション」に目を向けたい。mixiで、このニュースが報じられると、多くの不特定多数の人のコメントが入った。その一部を紹介したい。

「日本が嫌ならとっととお帰りいただいた方がいいと思うんだが」
「何だか、教員側を擁護してある日記もあるみたいだね おお、こわいこわい」
「ましてや公立の学校の教師なら、そこは理解したうえで入ったと認識していると思っていたんだが・・・、どうも思想と教育を履き違えているように思える。そんなに反対を唱えるのなら、私立の学校に行けばいい。 無理に公立にはいなくてもいいんだよ」
「地方公務員で有る、教育公務員でも、その給与の何割かは国から支給されている。 つまり、この教師達は給料貰っている主体を否定している訳だ。この教師達に、教育公務員としての資格は無いのでは無いだろうか。…公務員で有りながら、国旗国歌を否定すると云う事は、あってはならない事だと思う」
「税金で養われている認識ないとしたら失望だし不敬罪でしょ?」
「給料支給元に感謝を込めて、きちんと起立して国家斉唱をしろ!!」
「最低限のモラルすら守れなくなったんだね.... この処分された教師の教え子たちが不憫だね」
「形だけ立って、口パクしてりゃあいいのに  戒告よりましだろ?」

中には、少数だが、不起立の教員を弁護するコメントもあったが、そのほとんどが上のような意見だった。なお、海外ではどうなのか、そういう議論もあった。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1180589321


どれも、極めて論争的なテーマなだけに、神経を使うが、いずれにしても、僕ら国民?市民?庶民?一般人?たちが、国家権力に対して、異を唱えられない、反発できない、従うしかない、感謝しなければならない、といった(言わば)「あきらめ」に似た感情をもっているように思うのは、僕の妄想だろうか。

大きな体制(国家・権力)に頼り、支持し、それを保護する。それこそが、冒頭で述べた「戦争への入り口」なのではないだろうか。そういうと、大げさなような気もするけれど、今はたとえ大丈夫でも、こういう状態で何か大きな問題が起こった時には、すべてが「戦争」へと滑り落ちていくように思う。

そうさせないために、「教育」がある。少なくとも、アドルノは、『アウシュヴィッツ以後の教育学』で、そのことを訴えている。「二度と、アウシュヴィッツの悲劇、野蛮を起こさせないことが、教育の第一目標である」、と。(ただ、実際のところ、国歌の際の不起立が、そうした野蛮の防止になるのかどうかは分からない)


先回、喫煙問題でも色々な人からコメントを頂きましたが、僕が問題としたいのは、このことだけなのです。

規則を守ることは大切なことですし、規則を破ることを見過ごすことはできません。が、その規則自体も、誰かが作ったものであり、その作り手の価値が入り込みます。具体的な誰かがその規則を作ったのでなくても、その時代の空気という権力によって作られてしまうのです。規則を守ることと同時に、その規則自体の正当性を疑うことも、また僕らの使命だと思うのです。(ただ、タバコの例は悪かったですね、、、反省。。。)

規則・ルールを守ることは大切。でも、その規則やルールもまた人間が作ったものであり、100%正しいとは限らないわけです。その間に立つのが、教育であり、教師であると思います。

教育やそれに携わる教員は、規則やルールを教えるのと同時に、その規則やルールが本当に正しいものなのかを疑うことも教えなければならないのです。特にそれが国家権力による規則やルールであるなら、その真意を追求する必要もあるのです。繰り返しますが、「不起立」が、その追求になっているのかどうかは検討する必要があります。が、不起立の教員たちは、そういう「責任」を感じ、非難覚悟で挑んでいるのです。子どもたちは、教育次第で、よき人間にもなるし、また「SS」のような殺人マシーンにもなるのです。人間の尊厳、個人の尊厳、命の尊厳を子どもたちに伝えられるのは、まさに教師であり、学校であると僕は思います。

それから、上のコメントにもありましたが、「そんなに反対を唱えるのなら、私立の学校に行けばいい」というのは、極めて危険です。というのも、公立学校・私立学校を含め、義務教育は、国が親に課したものであり、それ自体が権力になっているからです。親は、望む・望まないに関わらず、自分の最愛なる子どもを、学校に託さなければならないわけです。そこで行われていることが、「規則の遵守」「ルールの絶対化」「権力への従順」だったとしたら・・・ 親はそんな学校に行かせたいでしょうか。否、行かせたくなくても、行かせなければならないのです。だから、公立学校こそ、価値が(可能な限り)中立でなければならないし、常に体制に対して一定の距離を置かなければならないのです。「国家や社会の命令に従え」というメッセージだけが学ばれる場所だったとしたら、どんな親も通わせたくはないでしょう。教師も、そんなメッセージを送りたくて、先生になったわけではない。また、子どもの教育を作り上げてきた偉人たちも、そんなことは考えていない(一部にいるけど…)。

最後に、なぜ僕がこの問題を必死に語るのかと言えば、こうした問題こそが、「赤ちゃんポスト論」の中核に入り込んでくるからです。あるいは、福祉やケアの問題もしかりです。福祉は、教育以上に国家や制度に依存せざるを得ない立場にあります。児童福祉の問題も、そのほとんどが行政サービスに依存する傾向を強めています。けれど、それにはやはり限界があるわけです。行政の問題である以前に、われわれの「生活」の問題であり、僕ら一人ひとりが、その当事者として、どう関わっていくかが問われているわけです。

国家への依存でもなく、個人の自立や責任でもなく、僕ら生活者の連携、というか、協働というか、信頼関係というか、そういうもっと根底的なつながりや関係の中で、教育や福祉の問題は考えられねばならないと思います。そして、そうした連携やつながりを保障するのが、国や制度や政策の務めだと思うんですよね。

ただ、希望もあります。僕ら世代のモンスターユニット、COMPLEXとディスクガレージの試みだ。

http://www.diskgarage.com/news/

国や権力にただ委ねるのではなく、自分たちで自分たちの国、町、お金をどうするかを決める。そういう形での支援も生まれつつある。実にCOMPLEXらしいアプローチの仕方だと思いますね。カッコいいです。彼らがもし教師だったら、どう出ますかね。やはり起立しますかね。それとも不起立ですかね。それはさておき、自律的な支援の可能性を拓いた、という意味で、この試みはもっともっと評価されてもいいと思います。

まだまだ書き足りませんが、この辺で終わりにします。


 

あの日から一年。たくさんの命が奪われました。命を守ること、命を尊重すること、そして、一人ひとりの人間の価値を重んじること、そのことから目をそらしたくはないです。なので、この日に、今僕が根底に思っていることを書きました。

平和であること、平安であること、平穏であること。それがどれだけ尊いものであるか。そして、それがどれだけ危ういものであるか…

コメント一覧

昔喫煙者
引用にあった女性教師の主張は読みましたよ。
自分の行為を正当化するための詭弁にしか捉えられませんでしたがね。ただの左翼運動家でしかありません。
彼らの偏向教育からいかに子供たちを守っていくか?大きな問題です。

kei
またまたのコメントありがとうございます。

言葉って難しいですよね。いろいろなニュアンスが生まれてきますから。

けれど、不起立の彼らは、若干偏っているにせよ、いい加減で適当な人間ではないはずです。本当に問題なのは、こうした問題に無関心で、ただ言うことを聴いているだけの教師だと思います。それは引用で挙げた女性教師の文章を読んでいただければ幸いです。

学校のみならず、社会のいたるところに「差別」があり「偏見」があります。そして、少数派の意見はかき消されます。そのことだけは強調させてください。

それに昔喫煙者さんのような親御さんであれば、学校は教習所でもいいかと思います。が、色々なご家庭があります。否、どの家庭にもそれなりの偏りがあります。「方程式のみ」でよいとされる学校は、近代諸国にはないかと思います。むしろ、どの国においても、道徳、倫理、思想、哲学が学校の根底にあると思います。(ただ、僕も個人的には、「方程式のみ」には少し賛成です!)

話が散らかっていると取られるのは承知の上で書きました。が、そうではなく、個々の事象(ニュース)の根底にある問題は何か、ということを述べたまでです。ネットのニュースはあまりにも個々の事象を扱うあまりに、その全体像が描かれません。僕の文章がその根底を描けているとは全くもって思いませんが、その努力をしたつもりです。

それと、誤字訂正ありがとうございました!

昔喫煙者
3ブロック目の「一歩的」→「一方的」です。失礼いたしました。
昔喫煙者
「規則」というのは所詮は“人”が作ったものです。“人”が作ったものであるならば“人”が変えられるものでもあります。憲法も然り、です。
ただし、それはちゃんとした手続きを踏まなければならないのに、その規則が不満だからといって、“規則破り”を容認することはできません。“規則を破る”ことで抵抗を示しているのなら、尾崎豊の世界ですな。15・6歳の坊やじゃあるまいし、なんて幼稚な奴らなんだ・・・。
彼らにはkeiさんが思っているような崇高な考えはないですよ。ただ、教師というお気楽なで身分が保障された職業からは離れたくない。でも、自分の思想信条は曲げたくない、という我が儘で身勝手なだけです。

ところで、不起立をしている教師って、生徒には「校則を守れ!」って言っているのでしょうか?
keiさんも中学生のころを思い出してみてください。守らなければならないほどの真っ当な校則でしたか?それでも教師たちは「絶対的な立場の違い」を利用して生徒に強いてきました。
この唾棄すべき教師たちに、私は何も求めてはいません。私自身が中学生だったときも心から彼らを軽蔑してきましたし、今は我が子にもそのように躾けています。「教師を反面教師とせよ」と。

「公立学校こそ中立でなければ」と書かれていますが、むしろ実際は偏向教師が多く存在し、一歩的な思想教育をしているのではないでしょうか。教師は方程式のみを教えてくれればいい、と私は思っています。それ以上の介入は迷惑であり、子どもへの教育上、よくないものと捉えています。そこは親として子どもを教師から守る責務であると考えています。

今回のエントリーは、だいぶ話が散らかっていたので、一部のテーマにだけコメントさせていただきました。
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