Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

アドルノから「同調しない力」について教えてもらおう!-冷淡な人間にならないために

ドイツの思想家テオドール・アドルノの「自律性」についての文章があったので、ご紹介したいと思います。

アドルノは、「同調しない力」に、自律性の本質を見ていました。僕も、論文や本で彼のこの言葉を度々使っています。そして、その「同調しない力」をホンキで子どもたち(大人たち)に与えたいと思っています。

というのも、日本の多くの人が「同調圧力」に苦しみ、そして、それに屈しているからです。

でも、それだけじゃないんです。うまく同調できる人がこの国で成功しちゃっているんです。同調できない人は、周囲から「変わり者」「変人」「人間として終わっている」等々と言われ、ずっと苦しむことになるんです。

おかしくないですか? 何もせず、何も考えず、まわりの空気を読むだけで、とんとんと成功しちゃうのって。何も考えてなくて、周囲の顔色や空気を読んで、そこにうまく同調できる人のほうがみんなに認められるのって、変じゃないですか?

よく、「組織ではぁ~」とか「日本ではぁ~」とか「合わせときゃいいんですよぉ~」とか言う人(冷淡な人)がいるけど、そういう人間が「まとも」ですか? そういう人間が増えて、この国はよくなると思いますか? これ以上、反知性主義が広まることは、この国がもっとおかしくなるってことですけど…。

アドルノの「同調しない力」について書かれた文章は以下のとおりです。(書いた人は、バーゼル在住のミカエル・クロゲルス(Mikael Krogerus)さんという僕とほぼ同い年のライターさんです🎵)


Wie verhindern wir, dass die Kälte uns erfasst?
冷淡さが私たちを襲うことをどのように防げばよいか?

Unter Autonomie versteht Adorno die Fähigkeit zu Reflexion und Selbstbestimmung. Erst wer sein eigenes Handeln reflektieren kann, entwickelt die Kraft zu einem selbstbestimmten «Nicht-Mitmachen». Mit Empathie wiederum meint er das Mitfühlen- und Mitleiden-Können mit anderen Menschen. Die Mörder in Auschwitz waren, wie Adorno ausführt, unfähig gewesen, «nein» zu sagen, und geprägt von einer grundlegenden Empathielosigkeit, einer emotionalen Kälte. Diese Kälte sei das Resultat einer frühkindlichen Erfahrung und einer gesellschaftlichen Ordnung, «welche die Kälte produziert und reproduziert». Wenn man also fragt, wie wir Auschwitz verhindern können, fragen wir eigentlich: Wie verhindern wir, dass diese Kälte unsere Kinder – und letztlich auch uns selbst – erfasst?

Man kann, so erklärt Adorno, die Kälte nicht wegerziehen. Aber man kann versuchen, ein wenig davor zu schützen, und zwar indem man der Kindheit «die Treue halte».

引用元はこちら


この文章を一文ずつ見ていきましょう。

(分かりやすくするために意訳している箇所がいくつかあります)

①Unter Autonomie versteht Adorno die Fähigkeit zu Reflexion und Selbstbestimmung.

「自律性という言葉を、アドルノは、反省する力と自己規定する力と理解していた」

②Erst wer sein eigenes Handeln reflektieren kann, entwickelt die Kraft zu einem selbstbestimmten «Nicht-Mitmachen».

「自分の行為や振る舞いを反省することができる人だけが、自己規定的に<同調しない>力を養っていける」

③Mit Empathie wiederum meint er das Mitfühlen- und Mitleiden-Können mit anderen Menschen.

「それに対して、アドルノは、エンパシー(*相手の立場になって相手の気持ちを汲み取る力)という言葉で、他の人間に共感できることやその人間と共に苦しむことができることを想定していた」

④Die Mörder in Auschwitz waren, wie Adorno ausführt, unfähig gewesen, «nein» zu sagen, und geprägt von einer grundlegenden Empathielosigkeit, einer emotionalen Kälte.

「アドルノが指摘しているように、アウシュヴィッツの殺人者たちは、「ノー」と言うことができなかった。また、基本的なエンパシーの欠如、感情の冷淡さ(冷酷さ)という特徴をもっていた」

⑤Diese Kälte sei das Resultat einer frühkindlichen Erfahrung und einer gesellschaftlichen Ordnung, «welche die Kälte produziert und reproduziert». 

「この冷淡さは、幼少期の経験と、<冷淡さを生産し、それを再生産する>社会的なシステム(体制)の結果なのであろう」

⑥Wenn man also fragt, wie wir Auschwitz verhindern können, fragen wir eigentlich: Wie verhindern wir, dass diese Kälte unsere Kinder – und letztlich auch uns selbst – erfasst?

「なので、もしいかにして私たちはアウシュヴィッツを阻止できるかと問うのであれば、そもそも私たちはこう問わなければならない。冷淡さが子どもたちを-そしてそれは最終的には私たち自身を-襲ってくるのを、私たちはどう阻止すればよいのだろうか、と」

⑦Man kann, so erklärt Adorno, die Kälte nicht wegerziehen. Aber man kann versuchen, ein wenig davor zu schützen, und zwar indem man der Kindheit «die Treue halte».

「アドルノが語るように、この冷淡さを教育で取り除くことはできない。しかし、幼少期に<誠実な気持ちを抱くこと>で、その冷淡さの襲撃からいくらか守ることを試みることはできるだろう」


この文章から分かることは、

①すぐに同調する人(つまり自律性を欠いた人)が、アウシュヴィッツでの殺人者になった。

②その殺人者たちは、自律性だけでなく、エンパシーにも欠けていた。

③そういう自律性やエンパシーに欠ける人は、冷淡な人である。

④冷淡さは教育で取り除くことはできない。

⑤ただし、幼少期に誠実な気持ちを抱くこと(=幼少期に対して忠誠を誓うこと)で、冷淡な人間になることを阻止することはいくらかできる。

ということになりますかね。

幼少期に、人(親)の言いなりになったり、自分で何かを決める経験をしなかったり、人(親)の顔色をうかがうこと(忖度すること)を学んだりしてしまうと、自律性が欠けるだけでなく、人の気持ちを考えるエンパシーの力も奪われてしまうんだと思います。言われたことしかやらない人の場合、常識的に考えても、「他者がどう思っているか」なんて考えないですよね。

幼少期に対して誠実な気持ちを抱くことについて、アドルノは別の講演で次のように話していたそうです。


«Mit der Treue zur Kindheit meine ich, dass Sie [gemeint waren die Studierenden] nicht den Traum des ganzen Glücks für sich und für alle verkümmern lassen dürfen [...].

Der Begriff des Menschen selber haftet an dem Gedanken dessen, was mehr ist als die Menschen und ihre Existenz heute sind, und was schliesslich doch verwirklicht werden muss, an der Utopie.

Damit möchte ich Sie nicht zum Schwärmen ermutigen [...], aber jenes unwägbare feine Gefühl, dass das, was ist, nicht die ganze Wahrheit ist, dass es ganz anders sein könnte und anders sein soll, muss sich zu jeder Erkenntnis dessen, was ist, gesellen; sonst ist es keine Erkenntnis, sondern die stumpfsinnige Wiederholung des blossen Daseins.»

引用元はこちら


このアドルノの言葉を訳しますと…

「幼少期への誠実さという言葉で、私が言わんとしているのは、みなさんが(ここで想定されているのが大学生たち)が、あなたたち自身のための、また皆のためのすべての幸福(全幸福)の夢を枯らしてはならない、ということです」

「人間という概念はそれ自体、人間以上のものであるという思想、その実存が今ある以上のものであるという思想につながっています。そして、最終的にはいつか実現されなければならない思想であるユートピア(*多様性に基づく共存による真の調和)につながっているのです」

「わたしはここで、みなさんを熱狂させたいわけではありません(熱狂を引き起こしたいわけではありません)。…しかし、『存在するものがすべての真理ではない」「それは全く別のものになり得て、また全く別のものになるべきだ」というあの(かつての)計り知ることのできない繊細な感情を、存在するもののあらゆる認識に付け加えなければならないのです。さもなければ、それは、認識なのではなく、単にそこにあるもの(剥き出しの現存在)の退屈な(愚鈍な・単調な)繰り返し(反復)になってしまうのです」

となります。

子どもの頃、誰もが「世界中のみんなが幸せになりますように」と、「世界中の誰もが笑顔で楽しく生きられますように」と願ったはずです。ユートピアとは、何か大それたすごい世界の話ではなく、子どもたちが素朴に思う「みんなの幸せ」なんですね。そんな小さくて大きな夢を枯らさないことが、「幼少期への誠実さ」だとアドルノは言います。

目の前のつぼみ(蕾)を見て、「これが大きくなったら、綺麗な花が咲くんだ」と心躍らせる子どもの気持ちもまた、「存在するものはすべて別のものになっていく」という繊細な感情の表れでしょう。

そうした気持ちが、「退屈な日々の繰り返し」を克服する道であり、また、そうした気持ちを失った人間こそが、「冷淡な人間」なのでしょう。

クロゲルスさんも、最後に次の言葉を紹介しています。

«Wer die kindliche Naivität in sich selbst aufgibt, der ist anfällig für die Kälte.» (HERE

その人自身の内にある子どもらしい純真な無邪気さを捨て去った人は、冷淡な人間に陥りやすい。」

自分自身の内にある子どもらしい「無邪気さ」。この言葉の原語は「Naivität」です。このNaivitätを英語に直すと、実はたくさんの意味があるんです。

ドイツ語から英語の意味を拾って、その英語の日本語訳を並べると…


●naiveté=純朴さ、素朴さ、ばか正直、naïvety
●simplicity=純真、天真爛漫さ、飾り気のなさ
●ingenuousness=無邪気さ、率直さ
●greenness=新鮮さ、未熟さ
●artlessness=素朴さ、正直さ、人工的でないさま、飾らなさ、技能のなさ、洗練されてないさま
●simpleness=複雑でないこと、質素さ、簡素さ
●simple-mindedness=うぶさ、だまされやすさ、愚かさ、純真さ、無邪気さ
●simpleheartedness=素朴な心をもっているさま、純真さ、うぶさ


こんなふうにいっぱいあるんです。

こうしたものを捨て去った人が、冷淡な人間ということになりますね。(多分、僕は幸か不幸か、このすべてを46になった今もばっちり兼ね備えていると思います🎵 某同僚からも「社会的不適合者(名誉あるレッテル)」って言われましたしね☝)

もしあなたが「空気が読めない人ね」と言われたら、喜びましょう。「ばか正直さ」を今もしっかりもっているということです。また、もしあなたが「オマエは無邪気過ぎる。もっと大人になれ」と言われたら、「結構です」と言いましょう。そして、それを言った人に向けて、「あなたのような冷淡な人にはなりたくないのでね」とつぶやきましょう。

アドルノは、冷淡な人の特徴として、「傍観者的な態度(die zuschauerhafte Haltung)」を挙げています。Naivitätを捨てた人は、その代わりになるものが欲しいんですね。しかも、そういう無邪気な人を一段高いところから見下せるような何かが。それが傍観者的な態度であり、たとえば分かった顔をして「エビデンスが~」とか「それは科学的じゃないぃ~」とかって言いだすんでしょうね。

この話は、子どもに関わるすべての人に必要な話だと思います。

子どもに関わる教師や保育士や親は、こうしたNaivitätを今もしっかり持っていますか? 純朴に、素朴に、ばか正直に生きていますか? 天真爛漫な心で日々の生活を送っていますか? 未熟さを大切にしていますか? 大人ぶって、飾っていませんか? すべてを(子どもより)分かった気になっていませんか? …

そういう人たちが、冷淡な人間をつくっているんですよ。つまりは、人間に必要な自律性やエンパシーの能力を子どもから奪っているんですよ。上の文章でも、人間の冷淡さは「再生産される」と言っています。冷淡な教師や保育士や親が、冷淡な子どもを再生産しているんですよ。

そういう冷淡な人間が多いからこそ、フレーベルも自分の同僚や後輩たちに、「さあ、われわれをわれわれの子どもに生きさせようじゃないか」とわざわざ語ったんだと思います。

そして、このことを忘れないために、教育学や保育学を担う人たちは皆、「子どもから学ぶこと」をずっと言い続けているんだと思います。それは、傍観者的に学ぶことではないんです。そうではなく、自分が失いつつあるであろう「子どもらしい純粋な素朴さ」を忘れないために、自分のために学ぶのです。つまり、常に襲ってくる冷淡さから子どもたちと自分自身を守るために。

最後に。

子どもらしい純真な無邪気さを固持するためにも、まずは、今のこの社会に絶望することが大事だと思います。トロデー・ゼレは、こう言っています。

私たちの生きている現状への絶望が、ユートピアというものを、生き抜いてゆくための不可欠な糧にする

子どもに関わる大人たちは、現状に同調することをやめ、そしてその現状に絶望し、そして、子どもらしい純真な無邪気さを学ぶことで、己の内にある冷淡さを常につぶしていく努力をしつづけなければいけませんね、と。

まずは、今のこの世の中の現状に、絶望することから始めましょう💛

その絶望は、希望なのです。その絶望は、冷淡な人間を放棄するという希望なのです。決して、「今のままでいい」とか「このままでいい」とかって思わないでくださいね✨

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