恋愛交差点 の続編!
上の記事で、僕は恋愛の四つの条件について論じてみた。恋愛が生じたとき、その発生を認識するための条件と言ってもいいかもしれない。「なぜ恋する人は自分が恋をしていることに気づくのか。何に基づいてそれを恋愛と規定しているのか?」というのが、前回立てた問いであった。(恋愛の根拠への問い)若干修正して挙げると・・・
①身体的要因(見た目、肉体美、身体的能力など)
②一致要因(趣味の一致、夢、目標の一致、職業の一致、性格の一致など)
③経済的要因(財、金銭、土地、地位、社会的立場など)
④人間性の要因(尊敬、信頼、あこがれ、魔性、人情など)
この四つの要因によって、恋愛が生じていると判断することが可能である。
(これ以外に要因があれば是非とも教えていただきたい! なお、いわゆる「恋愛」に限定する。兄弟愛や親子愛や神への愛は除外!!)
おそらく人間は、上の四つの要因に基づいて、己の恋愛を規定しているように思われる。これ以外の要因はほとんど考えられない。お見合いなどもこの恋愛の要因に入れ込むこともできるかもしれないが、家の存続やその他の利害関係から結婚を決定する場合もある。だが、これは「結婚の要因」であって、「恋愛の要因」ではないので、除外する。
だが、これら4つの要因には「落とし穴」がある。というか、現代人の思想の根底にあるものを呈している。それは、haveの思想である。
上の4つの要因は、すべて恋愛の対象、つまりパートナーが所有するものである。ルックスであろうと、足の速さであろうと、筋肉の美しさであろうと、趣味であろうと、夢であろうと、お金であろうと、財産であろうと、やさしさであろうと、かわいさであろうと、知性であろうと、感性であろうと、これらすべてはパートナーが有している財(物質的財・精神的財)である。
ルックスがいい=よい顔を所有している
足が速い=速い足を所有している
かわいい=かわいいと思われる顔を所有している
自分と同じ趣味=自分と同じ趣味を相手が所有している
夢に向かって生きている=夢なるものを所有している
金持ち=お金を所有している
土地持ち=土地を所有している
信頼できる=信頼しうる人間性を所有している
尊敬できる=(自分からみて)尊敬できる人間性を所有している
つまり、恋愛において、われわれは、相手が所有している財(価値)を基準にして恋愛の対象を判断しているのである。これは、恋愛に限った話ではなく、商品であれ、学校であれ、就職先であれ、アーチストであれ、あらゆる判断において見られるものである。われわれは、常に、「対象がどのような特性や性質をもっているか」ということを基準にして、その良し悪しを判断している。高度に発展した先進諸国では、モノが溢れていて、(本質的にはどうでもよい)細かい差異や特徴や特性(付加価値)がものをいう。
恋愛においても同様に、「恋愛する相手にいかなる性質が備わっているか=相手がどのようなものをもっているか」という観点で、やはり自分のパートナーを選んでいる。恋愛する相手が上に述べた所有物をたくさんもっていればもっているほど、「魅力的」と感じる。ルックスがよくて、お金をもっていて、自分と似ていて、尊敬できて、信頼できる人と出会ったなら、ほとんど100パーセント恋に落ちるだろう。こうした観点は、まさに「have」の観点であり、「所有」の観点であるといえる。
こうした観点を超えて、われわれは恋愛対象を決断することができるのだろうか。この問いに答えるべく、恋愛論を書いたのがエーリッヒフロムである。
彼は「have」と「be」を区別し、beの思想を打ち立てた。彼の細かい議論はともかくとして、beの恋愛とはいったいどのようなものなのだろうか。「もっている、ゆえに愛する」ではなく、「ある/いる、ゆえに愛する」というのはどんな恋愛なのだろうか。また、相手の所有物に恋愛の根拠を置くのでなく、beに恋愛の根拠を置くとはいったいどういうことだろうか。
簡単に考えてみよう。単純に次のような命題が成り立つ。
その人がいる、だから愛する
(She is there, therefore I love you/Sie ist da, deshalb liebe ich dich.)
これがbeの恋愛だ。相手がいることが恋愛の根拠となるような恋愛なんて、いったい存在するのだろうか。
ここで考えたいのは、「がいる」というとき、誰にとってその人がいるのか、ということである。紛れもなく、それは自分にとって、その人がいるのである。「いる」ということを規定しているのは、自分自身である。自分にとって、その人が存在しているのである。その人の存在は、今自分が問題としているところのものである。
「その人がいる」と言ったとき、問題となるのは、その人そのものではなく、その人を存在させている自分自身である。例えば「本がある」というのは、「今自分の目の前に(あるいは自分の意識の中に)」ということが暗に含まれている。ゆえに、beの恋愛において問題となるのは、相手ではなく、相手と共に存在している自分自身なのである。その人と共にいるときの自分自身。その人と一緒にいるときの自分の存在の仕方が恋愛を規定する根拠となるような恋愛。
どういうことか。問いにすると、「どんな人と共にいると、最も自分らしい自分が出てくるか」、「どの人とだったら、無理なく、一番よい自分が出せるか」、ということになる。もちろん「よい自分」というのは、自分自身で見出さなければならない。けれど、どんなに相手がよいものをもっていたとしても、その人と一緒にいてよい自分がでなければ、無理が生じ、愛することができなくなるのである。世間一般がどれだけ「素敵な人」と賞賛しようとも、その素敵な人と共にいる自分自身が生き生きしていなければ、その愛はグラグラと揺らぎ、自分自身が辛くなっていくのである。
【beの恋愛のキーワード】
居心地がいい、一緒にいて苦にならない、笑顔になれる、素直でいられる、相手に(変な)気を使わない=相手の顔色を(あまり)うかがわない、その人がいなくても一緒にいる感じがする、ほのぼのしていられる、身の危険を感じない、好色に引きずられない、フラットでいられる、気持ちが落ち着く、そわそわしない、地に足がついた感じがする、etc... 本質的には、I can be with youってことかな・・・ (すべて自分の方にベクトルが向いている言葉になっていることに注意!)
beの恋愛は、相手が何をもっていようとどうでもよいのである。それよりも、相手と一緒にいる自分を問題にするのである。そういう視点こそ、われわれがこれから獲得しなければならない恋愛の条件なのではないだろうか。
●だがbeの恋愛は、悲しいかな、退屈を産み出す。刺激を求め、beの恋愛を見失い、haveの恋愛にひきつけられていくケースが多々ある。資本主義の現代社会では、have(所有)の欲求がフルにかき立てられているので、人間は退屈に耐えられなくなっている。これをどう考えるか。
●また、「人を愛することを学ぶことができるか」という観点からすれば、beの恋愛は、愛を学ばなかった人にはなかなか理解することができないように思われる。幼少期に居心地のよさやフラット感を味わっていない人には、beの恋愛を恋愛と認めることをしないだろう。まずは、そういう居心地のよさそのものを味わわないと、beの恋愛へと向かうことができず、haveの恋愛、しかも痛烈なhaveの恋愛を求めてしまうように思われるが・・・