Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

恋愛交差点28-「本当の友だちって何だろう?」から始まる「フィリアの愛」への問い

不定期連載「恋愛交差点」。

その第28話であります。

前々回と前回の2話にわたって「エロスの愛」について語りました。

前回の恋愛交差点27の記事はこちら

今回のテーマはずばり「友だちへの愛(Friendship)」であります

ふつうは「友情」といったり「仲間」といったり「親友」といったりしますね。

若い時は、「本当の友だちって何だろう?」と自らに問いかけたりもしますよね。

今でも、若い子たちから「友だちと恋人のどちらが大事か」なんていう相談を受けたりもします。

また、「友だちは多い方がいいのか、少なくてかまわないのか」という相談もあったりしますね。

またまた、「友だちみたいな恋人がいいのか、友だちは恋人にならないのか」、「男女間の友情は成り立つのか、成り立たないのか」といった問いも出てきたりします。

友だちとは何か?

これもまた、古代ギリシャ時代から議論されてきた、人間の永遠のテーマと言えるでしょう!

友だちは、永遠の人間のテーマなのです。

***

さて、、、

友だちへの愛のことを、学問的には「友愛」と言います

あまり聞き慣れない言葉だと思いますが、「友愛」、まず覚えておいてください。

そして、この友愛は、「Philia」=「フィリア」というギリシャ語から来ている言葉だ、ともおさえておいてください。

エロスの愛(Eros)とは異なるのが、フィリアの愛(Philia)です。

どちらも「愛」を表す言葉ですが、そのニュアンス(意味内容)はかなり違います。

エロスの愛は、「欲求」の愛であり、「上への愛」であり、「イデアへの愛」であり、「アレテー(徳)」を求める愛でありました。この愛は、もっぱらプラトンの考え(プラトンが書き残したソクラテスの考え)に基づく愛であります。

そのプラトンは、エロスの愛とは別に、フィリアの愛についても熱く語っています。

この本の中で、フィリアとは何か、友愛とは何か、友情とは何か、ということについて語っています。

リュシスについてのブログ記事、ありました

この本の中で興味深いなぁと思うのが、「どうあったら、友だちと言えるのか?」という問いです。

この本で、ソクラテスはこう問いかけます。

答えてくれたまえ。だれかがだれかを愛するばあい、どちらがどちらの友(フィロス)になるのか。愛するほうが愛されるほうの友になるのか。あるいは、愛されるほうが愛するほうの友になるのか、それとも、どちらでも同じことかね?」(202b)

相手から愛されようと、憎まれようと、愛するほうが愛されるほうの友であるのか、愛されるほうが愛するほうの友であるのか、いや、それともまた、このようなばあいには、両方ともたがいに愛しあうのでなければ、どちらも友だちにならないのだろうか?」(202c)

自分が相手を友だちだと思っていれば、それは友だちなのか? 自分は相手を友だちだと思っていなくても、相手が友だちだと思ってくれていたら、それが友だちなのか? あるいは、どちらも双方が同じくらい友だちだと思わないと、友だちではないのか? 

愛する側か、愛される側か、それとも両方か?

この問いはとても面白い問いだと思います。

これは、単に友だちだけではなくて、恋愛においても通じる話だと思ってください。この「恋愛交差点」でも「両思いがいいのか、それとも、片思いがいいのか」ということについて考えたこともありました。

恋愛交差点19-「片思い」の教育学的考察はこちら

友だちにおいても、「自分はすごく好きだけど、相手はそれほどでもない」ということはよくありますよね?! 逆に、「自分はそこまで友だちだと思っていないけど、相手は自分のことをすごく好きでいてくれる」みたいなこともありますね。

これは、若者の恋愛においても通じる話だと思います。

このフィリアの愛については、プラトンのライバル?宿敵?学友?のアリストテレスが熱く語っています。

プラトンが熱く提唱したのがエロスの愛なら、アリストテレスが熱く提唱したのがフィリアの愛であります

理想(イデア)に燃えるプラトンに対して、現実をみつめるアリストテレスは、「上への愛」ではなく、「横への愛=対等な愛」を考えていくわけです。

横には、友だち、恋人、兄弟、仲間、家族などが含まれます。(なので、イデアの愛よりは、より身近な愛となるかと思います!)

上のソクラテスの問いに対し、アリストテレスは、ずばり「お互いに好意を抱いており、お互いに相手かたにとってのもろもろの善を願っていること、そして、そのことがそれぞれ相手かたに知られていること」が、必要だと語ります(1156a)。

相互応酬的な好意であってこそ愛(フィリア)なのである」と!

フィリアの愛について、アリストテレスは超有名な『ニコマコス倫理学』の中で熱く且つ冷静に語っています。

僕が読んできたのは、この岩波文庫版の「下」であります。

フィリアの愛が出てくるのは、「上巻」ではなくて「下巻」です。ご注意を!

この下巻の「第八巻」の第一章から、フィリア論が始まります。

今回は、アリストテレスの友愛論をもとにして、「友情愛とは何か」、「恋人愛とは何か」、「家族愛とは何か」について考えてみたいと思います。

繰り返しますが、アリストテレスのいう「フィリア」は、狭い意味での友だちだけに限定されません。恋人も友だちも兄弟も夫・妻も入り込んできます

なので、フィリアの愛もまた、「恋愛」や「結婚」について考える上で、とても大切な概念になるんです。

最も幸せな恋愛を、そして最も幸せな結婚を、夫婦関係を、家族関係を創るために、そして、最も幸せな愛情(Affection)のある人生を生きるために、愛(フィリア)をどう実践していけばよいのか。

恋愛好きな人は是非最後までお読みください!😊💕

まず、アリストテレスも、プラトン同様に、愛(フィリア)とアレテー(徳)と切り離せないものだ、と考えています。簡単に言えば、「愛情の深い人は、卓越した徳のある人だ」ということです。

また、いくら善きものをもっていたとしても、人は、「友愛なひとびと(フィロイ)なくしては生きることを選ばないだろう」とも語っています。

どれだけ徳のある人であっても、愛する友や恋人がいなければ生きられないんですね。

プラトンのいうエロスの愛(欲求)だけでは、生きていけないよねという話でもあります。自分の欲求とその対象であるイデア(アレテー)だけでは生きていけないよ。人間には、愛する人が必要不可欠なんだよ、と。

理想を追求するプラトンに対して、現実世界を見つめようとするアリストテレスらしい考え方です。

アリストテレスは、このニコマコス倫理学の中で、「どんな人を愛するべきのか」ということについて考えていきます。愛するのは、「自分と似たような人なのか」、それとも、「自分とは似ても似つかぬ人なのか」?

そして、アリストテレスは、愛(フィリア)には、三つのものがあると主張します。

愛されるべきもの、愛するに値するものは、

①善き人(アガトン)Friendships of the good
②快適な人(ヘーデュ)Friendships of pleasure
③有用な人(クレーシモン)Friendships of utility

の三種の人間だ、と言うのです。

(ちなみに、アリストテレスは無生物や動物との愛はフィリアの愛と考えていません。なので、岩波訳とは異なり、「もの」ではなく、「人」としました)

ちょっと言葉が固いですが、高田三郎さんの訳に従います。

友だちにせよ、恋人にせよ、夫婦にせよ、愛するに値する人は、この三種にあたると言うのです。

若い人向けにすると、②→③→①という順で考えていくといいかな、と思うので、まずは、若い人たちにとって一番身近な②の快適な人から考えていくことにしましょう。

✅快適な人とは?!

英語だと「Pleasure」にあたるのが、「快適」「快楽」「喜び」「楽しみ」「満足」であります。

友だちでも、恋人でも、まずは、一緒にいて楽しい人、喜びをもたらす人、不快を感じない人、自分が気持ちよくなる人、あるいは、自分を楽しませてくれる人、自分を気持ちよくしてくれる人、自分を満足させてくれる人が、フィリアの愛の対象になりますよね。

これは分かりますよね?! 

イケメンや美女と仲良くなると、それだけで気持ちよく(快に)なります。優しい人といると、自分は心地よい気分(快)になります。面白いことを言う人は、楽しみませてくれる人になり、趣味が一緒だと、何を話しても楽しみや喜び(快)を感じるようになります。ほっとできる人と一緒にいると、安心(快)を感じます。

これらは全部、快適さをもつ人であり、僕らが愛したくなるような「友人」「恋人」になります。

アリストテレスは、若い人のフィリアの愛についてこう語っています。

若者たちの愛は、快楽のゆえの愛であると考えられる。…彼らは情念に従って生きており、その追及するところは、彼ら自身にとっての、それも目前の快に他ならないからである。年齢の遷(うつ)るにつれて、その快とするところもまた異なってくる。彼らが速やかに親しくなる反面、また速やかに親しくあることをやめる所以もここにある。すなわち、快の遷(うつ)ると同時に彼らの愛は遷るのであるが、かかる快楽の転換は青年にあっては速やかである

これは、若い人たちも共感することができるのではないでしょうか?

若者たちは、すぐに誰とでも仲良くなるけど、数年も経てば、別の人と仲良くなりますよね? 

更にアリストテレスは語ります。

若者たちは恋愛に陥りやすい。恋愛は多くは情念的であり快楽を動機とする。されば彼らは、いま愛しているかと思えばただちにまた愛さなくなるのであって、しばし同一日のうちに変化が生ずることがある。これらのひとたちは、一緒に暮らし日常を共にすることを願う

若い人たちの友情や愛情は、情念と快楽を動機としているので、その情念や快楽が消えてなくなったり、また自分自身の成長と共に、快の中身も変わってしまったりします。

「イケメン好き」「かわいい子好き」だったのが「性格重視」に変わる、というのも「快の中身の変化」であります。(*その人自身のもつ人格やエートスではなく、表面的で上っ面の「性格」)

「かっこいいから」も、「かわいいから」も、「面白いから」も、「私に優しくしてくれるから」も、どれも「快」を引き起こすものであり、同じ原理に基づいている、というのは、なかなか斬新な考えではないでしょうか?!

つまり、「見た目か、それとも性格か」という議論は、実は同じ「快」の原理に基づいているのであります

快の原理に基づく以上、エロス論でみた「身体的な欲望」の原理とかなり近いものだ、と分かるとも思います。

身体的なエロスと同様、この快にもとづく愛(フィリアの一形態)もまた、永遠のものではなく、一時的なものであり、自分自身の変化や成長と共に、消えてなくなっていくものなのですね。

アラフィフ&教育学者の僕的には、「一緒にいて面白いから」とか「一緒にいると楽しいから」とか「自分にやさしくしてくれるから」という理由で、友だちや恋人を選んでいる若い人たちは、是非注意してほしいなぁと思いますね。

(*今の僕は「この人自身が本当に素敵で素晴らしい人だから」という理由がない限り、友とは思いませんし、相手も自分のことをそう思ってくれないと、やっぱり友とは思いません。(お互いに)素敵で素晴らしい人なので、嫌いになることもないんですね。この話は最後にでてきます👆)

✅有用な人とは?!

英語の「Utility」は、「実用性」「役に立つこと」「効用」「有用性」といった意味をもちます。

これを友だちに当てはめると、実用的な友だち、役に立つ友だち、有用な友だち関係などなど…。

これは、どちらかというと、社会人になった後に際立ってくる愛(フィリア)だと思われます。ビジネスライクな関係とか、損得勘定でのお付き合いとか、ビジネスパートナーとか、そういう間での友情関係という具合に。

僕自身、「赤ちゃんポスト」の研究者ということで、色んな人から問い合わせが来ます。それはそれでとてもありがたいことですが、その関係は、完璧に「有用さ」でつながる人間関係であります。「役に立つ人だから」という理由で僕に声をかけてくれ、親しくさせてもらう人は大勢います。中には、それをきっかけに深い友情が生まれる場合もありますが、そのほとんどは、用件が済めば、終わりを迎えます。

アリストテレスはこんな風に言っています。

壮年者や若者たちの場合にあっては、およそ功益〔実績・功績〕を追求するひとたちのひとびとのあいだに多いと考えられる。かような友人たちのあいだでは、あまり日常を共にしたりしない。相手かたが快適な人間とまでもゆかない場合が多いのであるし、したがって、相手がそのために特に有利になってくれるのでもないかぎり、こういった交際をことさらに必要としないのである。彼らにあっては、実際、相手かたが善への期待をもたらす程度においてのみ、相手かたが快適であるにすぎない」(1156a)

かなりきつい言い方をしているようにも思えなくもないですが…、こういう友情関係(あるいは恋愛関係)もあるかな、とは思いませんか?!

社会人になってからの「お付き合い全般」が、この有用な人同士の友情関係ではないでしょうか。プライベートなお付き合いではなく、ビジネス上での親しさなので、休日に会おうとは思わないし、必要がなければ連絡も取り合わないわけです。もちろん、お互いにお互いが「利益になる」と思わないと、その友情関係は成立しません。どちらかだけが利益になる場合、利益にならない方はすすんで会おうとは思いませんからね(これは、お互いがお互いに対して快をもたらさないと成立しない快適な人への愛と重なり合います)。

今の学生と教員の関係も、ほぼこんな付き合いになっているようにも思います。「用件があるときだけ、こちらから連絡する」という付き合い方が、今の学生と教員の「適切」な関係になっていますよね?!(稀の稀に、用件あるなしにかかわらず、頻繁に連絡をくれ、あれこれお話したり語ったりする学生もいますが、そういう学生は、教員のことを「有用な人」と見ていない学生ですね🎵 数年に1人現れるかどうかですけど。)

有用のゆえにお互いを愛するひとびとは、相手かたを相手かた自身に即して愛するのではなく、自己にとっての或る善(The good)が相手かたから与えられるかぎりにおいて相手かたを愛している。快楽のゆえに愛するひとびともまた、これと同様である。」(1156a)

つまりは、こういう人たちは、「自分がなにか善いものや快楽を与えてくれるかぎり、相手を愛する」のであります。それを簡単にいえば、「自分のために、相手を愛する」ということです。

これは、上の快適な人への愛も一緒で、「自分の快や利益のために、相手を愛する」ということが目指されるわけですね。「自分のために、相手を愛すること」、これが、おそらく人類史において最もメジャーなフィリアの愛ではないでしょうか。

ここ(快楽や利益)では、愛する相手は、彼(相手)がまさにそうであるところのひとたるかぎりにおいて愛されているのではなく、かえって、彼らが何らかの善または快楽を提供するかぎりにおいて愛されている。…このような性質の愛は、それゆえ、解消しやすき愛である。…けだし(思うに)、もし彼らがもはや快適でなく有用でなくなったならば、ひとびとは彼らを愛することをやめるであろう。」(1156b)。

友だちにしても、恋人にしても、「一緒にいても、もう楽しくない」「一緒にいても、心地よくない」、「一緒にいると、イライラしてくる」と感じるようになると、その友情や愛情は、徐々に(あるいは、さーっと)冷めてしまいます。

自分に利するものがなくなったからですね。

アリストテレスは、快適な人への愛よりも、有用な人への愛の方が低俗だ、とも考えていました。「有用のゆえに友たるひとびとは、功益の消失と同時にその愛を解消するものなのである。…彼らはお互いを愛する友だったのではなく、便益を愛する友だったのである」(1157a)。

(*こういう人たちを、後の人たちは「エゴイスト(利己主義者)」と呼ぶようになります)

それに対して、自分のためにではなく、「相手のために、相手を愛すること」が、善き人への愛(ないしは「善き人の愛」)であります。

✅善き人とは?

アリストテレスが、最も重視していたのが、善き人への愛(アガトン)であります。

善き人への愛は、上の快適さや有用さをもたないわけではなく、快適さや有用さももちつつも、それに加え、ひととなり(エートス)を備えもつ人への愛、ということになります。

こうした善き人への愛について、アリストテレスはこう言います。

究極的な性質の愛は、善きひとびと、つまり卓越性〔*愛における徳=愛されることを期待せずに愛することができるひと〕において類似したひとびとのあいだにおける愛である」(1156b)

前回の言葉で言えば、知識があって、勇気があって、節制があって、正義のある人同士の友情や愛情が、究極の愛だ、と言うのです。

簡単に言えば、「人として優れた人(善き人=愛する人)」と「人として優れた人(善き人=愛する人)」同士なら、永続的にお互いに愛しあうことができる、と。

こうした善き人同士の愛では、相手が自分に何をしてくれるかではなく、相手自身そのもの(の善)が問題となりますし、また、相手にとってみれば、自分自身そのもの(の善)が問題となります

アリストテレスは、少し難しい言い回しで、こう言います。

相手かたにとっての善を相手かたのために願うひとびとこそが、最も充分な意味における親愛なるひとびと(フィロイ)たるのでなくてはならない

かかるひとびとはお互いに相手かたのひとびとそれ自身のゆえに、そうした関係を保っているのであって、付帯的なものに即して愛しているのではないのである。それゆえ、これらの善きひとびとの愛は、彼らが善きひとであるかぎり永続する

ここはすごく重要なところです。

自分に何をもたらしてくれるか、自分に何を与えてくれるかではなく、相手自身そのものが愛するに値する人間だから好きだ、という感じですかね。アリストテレスも「お互いの人間自身のゆえに友でありうるのは、明らかに善きひとびとのみにかぎられる」とくぎを刺すように言っています(1157a)。

そういう善きひとびとは、善き人であるがゆえに、有益も快ももたらしてくれる、とアリストテレスは言います。

これらの(善き)ひとたちは、双方とも、無条件的な意味において善きひとであるとともに、相手かたにとっての善きひとでもある。というのは、善きひとびとは無条件的な意味における善きひとびとであるし、またお互いにとって有益なひとでもあるからである。同じくまた、彼らは快適なひとびとでもある。なぜなら善きひとびとは、無条件な意味においても、またお互いにとっても、快適なひとびとなのだからである」(1156b)。

となれば、快適な人や有用な人ではない、善き人は、快適さや有用さをも兼ね備えているということになります。とても素敵な話ですよね。

けれど、この善きひとたち同士の友情や愛情はきわめて稀だ、とアリストテレスは言います。

ただし、こうした愛は、当然、稀有であることを免れない。こういうふうなひとびとは少ないからである」。

だがそれだけでなく、時を経て、昵懇(じっこん=親しい関わり)を重ねることが、なおその上に必要である。というのは、ことわざでいうほどの「塩を一緒に食べた」のちでなくてはお互いを知ることができない。愛されるべきひとであることがどちらにとっても明らかになり、相手の信頼を博するようになるまでは、お互いを受け容れることもできず、真の友だちになることもできないのである

愛の態度をお互いに示すことの速やかなひとびとは、友たらんことを願っているのではあっても、しかし真に友たるのではない。…愛の願望はただちに生ずるが、愛というのは、しかし、そうはゆかないのである

2300年前も、今も、いつだって、真の友だち関係を生きる人ってとても稀有なんですね。

真の友、真の恋人、真のパートナーを見つけるためにも、まずは自分自身そのものの生き方や在りように目を向けたいところであります。

あなたは、相手から見て、あなた自身に「愛するだけの価値」が備わっていますか?、と。

***

以上、アリストテレスのフィリア論をすこしだけ辿ってみました。

どうでしたか?!

2300年以上前に、こんなことを考えていた人がいたんですよ。

アリストテレスは、紀元前384年に生まれ、紀元前322年に亡くなったとされています。

このアリストテレスのフィリア論が、後の僕たちの生き方を大きく変えていくことになりました。このフィリア論の後、キリスト教の影響が強まり、アガペーの愛やカリタスの愛(隣人愛)が語られるようになる、というのも実に興味深いものがあります。

賢明な人なら、ここまで読んでふと思うと思います。

じゃ、いったいフィリアの愛でいう、卓越性ってなんなんだよ!!」って。

善き人同士の愛が永続的な愛だとは分かったけど、じゃ、善き人って誰やねんっ!」って。

これについて、次回、語ってみたいと思います。

キーワードは、「愛されるよりも 愛したい」です!!

お楽しみに!!(楽しみにする人なんて、いるんかいな、、、(;´∀`))

コメント一覧

sehensucht
>あみん (hgn) さんへ
> 自分としては、日頃扱うのとは異なるテーマなので、難しく感じます。しかし、避けて... への返信

そう言っていただけるととても嬉しいです!!

反論や異論があれば、是非お教えください!!
あみん (hgn)
 自分としては、日頃扱うのとは異なるテーマなので、難しく感じます。しかし、避けては通れないものですよね。
 しっかりと理解できるように努めたいところです(^^;
sehensucht
>あみん (hgn) さんへ
>>楽しみにする人なんて、いるんかいな、、、(;´∀`)... への返信

ありがとうございます!!

この内容、どうですか? 難し過ぎますか? あるいは、簡単過ぎますか??(書いていて分からなくなるのです…💦)
あみん (hgn)
>楽しみにする人なんて、いるんかいな、、、(;´∀`)

 いますよ、ココに(^.^)v
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