不定期連載「恋愛交差点」、その第27話です。
今回は、この26話の続きとなります。
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テーマは、引き続き「エロスの愛とは何か?」です。
今回は、エロス論の醍醐味ともいえる「憧れの存在への愛」であります。
イマドキの言葉で言えば、「推しへの愛」もそこに入るかな?!(😀)
僕ら世代の言葉で言えば、「ファンのアーチストへの愛」になるかな?!
また、教師や保育士向けに言えば、「子どもから先生・保育士への愛」が主題になります。
エロスの愛は、決して「性愛の対象への愛」に留まるものではないのです!
むしろ、若者の最も若者らしさこそ、まさに「エロス」という生き方なのです!
高い理想を掲げ、その理想に向かって生きているあなたへ。
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まずは、ちょっと僕自身の「憧れの存在への愛」について話させてもらいますね。
僕が自分の人生において最も強く長く憧れたのは、「TUSK」=「板谷祐」です。
このバンドのボーカルのTUSKが、僕にとって最も憧れの存在でした(今も変わらず💓)。
見た目もさることながら、彼の「声」に魅了されて、そして彼の「歌詞(言葉)」に惚れました。
声は(前回の言葉で言えば)肉体的なエロスになるかなと思う人もいるかもしれませんが、声には「実体」がないので、ちょっと微妙になってきます。ただ、歌詞は、精神的なエロスに入ります。
中高生だったときの僕は、TUSKの言葉を自分の頭の中に入れこみ、そして、TUSKの語る言葉で、作文や歌詞を書いていました。見た目も真似しましたが、考える言葉もTUSKの言葉を使っていました。中学校の卒業文集も、そのほとんどがTUSKの言葉を真似して書いていました。
つまり、僕の考え方や考える言葉も、TUSKの言葉になっていったんです。
このTUSKへの愛は、恋人への愛情とは比べ物にならないくらいに、絶大なものでした。見た目だけじゃないので、自分の存在がまるごと、TUSKになっていくというか、TUSKみたいになりたい!という衝動で多感な10代を過ごしました。
その影響は、40代後半になっても続くものでした(今も大好きで応援しています!)。
辛いことがあっても、悪いことがあっても、不幸なことがあっても、全部、TUSKの言葉を思い出して、自分自身を鼓舞してきました(この「鼓舞する」という言葉もTUSKから教えてもらいました)。
僕の生き方、考え方、ファッション、言葉づかい、立ち振る舞い、全部に影響を受けています。
TUSKは、僕が描く理想の人間なんです。
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この僕のTUSKへの愛は、まさに「エロスの愛」の醍醐味とも言えるものなのです。
エロスの愛は、自分が憧れたその相手のようになりたい、その憧れの対象と一つになりたい、その憧れの対象と同一化したい、という「強い精神的な欲望」から来る愛なんですね。
自分にないものをもっていて、自分が欲しいと思うものをもっていて、自分がそれを得ることができれば、自分の理想の姿になりそうだと思えて、そして、そのようになりたい!と強く願う欲求が、まさにエロスの愛の力なんですね。
この愛は、師弟関係を研究している某K先生によれば、「師匠への愛」に近いものみたいです。TUSKは、僕にとっては最高の師匠であり、最高の先生になるんです。
そんな当時の僕のTUSKへの愛、つまり、自分よりはるか上にいて、その上にいるTUSKのようになりたいと思って、そうなろうとするエロスが、最も美しい愛のかたちだ、ということなのです。
>2010年には、そのTUSKと一緒にライブをさせてもらう夢も叶いました😂
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ところで、僕は学生たちとよく「推し」の話をします。
その時にいつも思うのは、その「推しへの愛」は、エロスの愛なのかどうか。もっと言えば、肉体的な欲望に基づく愛か、あるいは、精神的な欲望に基づく愛か、ということです。
これもまた、前回述べた4つの徳(アレテー)への欲望になっているかどうかで説明がつくと思います。
もし、あなたが、推しの対象となる人の「知性」「勇気」「節制」「正義」(つまりはアレテー)に惚れて、推しているのであれば、それは「精神的な欲望」に基づくエロスの愛だ、ということになります。
また、あなたが、推しの対象となる人の見た目、ルックス、顔、身体、筋肉、指先などの「肉体」を欲望しているなら、それもそれで、エロスの愛だ、ということになります。
推しへの肉体的な欲望に基づくエロスであれば、その推しへの愛は、推しの肉体的な変化と共に冷めていくことでしょう。推しが老いて、その見た目的な輝きを失えば、きっとあなたは、その推しからそっと離れていくことでしょう。
それはそれで幻の愛だった、と。
でも、もしその推しを精神的な欲望に基づいて「推して」いるなら、その愛は、その推しの対象がどれだけ衰えようと、どれだけ老化しようと、どれだけ見た目的に劣化?しようと、ずっと続きます。
冒頭に紹介した板谷祐=TUSKは、その後、こんな感じになっています。
ずいぶんとお変わりになったでしょう?!
肉体的なエロスの愛をもつ人はファンをやめ、精神的なエロスの愛をもつファンは今も彼を心から応援しています。推し活歴30年以上のファンも(多くはないけど)いるんです。TUSKのアレテーに惚れたファンの愛は、「終わらない」んです。「死ぬまでずっと」なんです。
(エロスの愛は、『饗宴』の中で、「死すべきものと不死なるものとの中間にあるもの」と言われています(202d)。自分自身の肉体はいずれ死にますが、エロスの愛それ自体は不死なんですね)
見た目や表面的な魅力でファンになった人は、5年後、10年後、15年後、おそらくファンをやめていることと思われます。「以前のような輝きがもうないから」「他に推しが見つかった」「もう今の推しに飽きた」などなど、色々と理由は作れると思いますが、どんな理由であれ、肉体的なエロスから「推し」を欲する人は、その推しの肉体的な衰えや変貌に幻滅して、ファンをやめていきます。
他方で、何年経っても、ずっと「推し」を愛し続ける人がいます。そういう人は、もちろんその変わった見た目も含め、肉体じゃないところ、つまりは精神的なところ(アレテー)に惹かれて、ファンを続けているんだと思います。僕の知る限り、30年、40年、50年と、とんでもなく長い時間をかけて、推しを追っかけているファンもいるものです。
その愛は、自分自身が死ぬその時まで続くことでしょう。
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以上のことから、エロスの愛は、恋愛対象への愛だけではない、ということになります。
これが、今回のエロスの愛②の最も大事な点になります。
エロスの愛は、欲望の愛であり、性愛ではあるのですが、それは決して、狭い意味での「恋愛の対象への愛」だけではないのであります。
それどころか、恋愛対象への愛よりも、「恋愛対象ではないけれど、しかし恋愛対象よりもより深くて普遍的な愛」になっているんです。恋人のことは好きであったとしても、「恋人のようになりたい」と思うことはあまりないですよね?!
エロスの愛は、自分より上にいる人、自分より高いところにいる人、自分よりもはるかに優れた人や崇高な人に向かう愛であり、それは、美しいものや善きものに向かう愛であります(僕的には、恋愛も実はそういう風に考えてほしいところであります)。
プラトンも何度も『饗宴』の中で「美しいものへの愛」をエロスと呼んでいます。
よく「愛情は消えるけど、尊敬は消えない」という言い方をしますが、これもまた、肉体的なエロスと精神的なエロスの違いについて語っているものと理解していいかと思います。
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プラトンは、エロスの愛の例として「師弟愛」を考えていました。
子どもや生徒たちが先生を慕う心は、まさに(ある種の)精神的な欲望に基づくエロスであろう!、と。
「師匠」や「先生」というのは、学校の外にもいっぱいいます。習い事の先生、スポーツクラブの先生や指導員、自分が憧れた作家、アーチスト、ミュージシャン、スポーツ選手、ダンサー、語学学校の先生などなど。
更には、歴史上の人物に憧れるということも多々あります。僕の祖父は、「卑弥呼」にずっと憧れていましたし、僕自身は、「神谷美恵子さん」のことをずっと慕い、憧れています。神谷美恵子さんは、僕にとってはもうなんというか「最高の女性」であり「最高の人間」なんです(見た目も中身も好きなので、究極のエロスの対象かも!?)。
この本が好きで、自分の出した本も『名前のない母子をみつめて』にしたくらいです!
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海外のスターたちに憧れる人もたくさんいます。映画俳優や映画監督、タレント、作家、小説家、学者など、海外のスターたちの思想や作品に惚れて、心の奥底までその思想や作品に染まる、ということもあります。
こうした師匠やヒーローやヒロインやスターを欲求するエロスは、子どもの先生への愛情や、学生や院生の教授への愛情と重ねて考えることができます。
子どもたちも、先生が大好きです。その「好き」は、(幼稚園児であれ、中高生であれ)肉体的なエロスではなく、精神的なエロスに基づく欲求に近いものではないでしょうか?!
教員・保育士養成校では、よく「自分が小さい時に好きだった先生みたいになりたくて、先生・保育士になろうと思いました」という言葉を聴きます。これもまたエロスの一つの現われなんだと思います。
顔が好きとか、見た目が好きとか、(見た目が)かっこいいからとか、美人さんだからとかではなく、「尊敬できるから」「頼れるから」「信頼できるから」「優しいから」「なんでも知っているから」「博識だから」「授業・講義が面白いから」「話や言葉に深みがあるから」といった理由で、「好き」という感情が芽生え、そして「こんな人になりたい」という欲望が生まれてきます。
高校生くらいになると、先生の見た目やルックスで、先生を好きになる人はいます。が、そのほぼほとんどが、卒業と同時に、「これは夢だった」「これは幻だった」と悟り、先生への愛情は冷めていくものであります。(そういう恋を高校生時代にしたという学生の話は本当にいっぱい聴いてきました)。
他方で、アカデミックな世界では、強烈なエロスに基づく師弟関係がずっとありました。古くは、ソクラテスとプラトンの関係がそうでした。また、ハイデッガーとハンナ・アーレントの師弟関係も色んな意味で興味深いものがあります。
こうした師匠への愛について、元駐ギリシャ大使の斎木俊男さんはこう語っています。
「プラトンの愛エロースとは要するに美しいもの善いものを自分のものにして幸福になりたいという憧れというか希求の精神的エネルギーなのですが、プラトンはそれを持つ人間が上へ上へと梯子(はしご)を登るような修行をおこない、ついには究極の超越的理想美(イデア)に出会う。この出会いに人間の生きがいがあるという考えなのです」(引用元はこちら)
このように、エロスの愛は、自分よりもはるかに上にあるものに強く憧れ、それを希求する欲求なんですね。
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そういうイデア的な対象に出会えた人は、とても幸せなんだろうなって思いませんか?!
僕には、そういう憧れの先人がちゃんといて、自分の人生に迷いというか、ブレはありません。
困ったときや追いつめられた時、「祐だったら、どうするかな?」とか、「神谷さんだったら、どう考えるかな?」とか、「宮台先生だったら、どう言うかな?」とか、「ハイデッガーやガダマーだったら、どう論じるかな?」とか、そんな風にして考えるので、潰れずになんとか戦い続けてこられました。
それよりなによりも、そうした同性・異性問わず、(男女間的な)恋愛感情抜きで、何かに憧れて、その憧れの存在に近づこうとする思いって、素敵だと思いませんか?!
理想を抱いて、その理想に近づこうと努力している若者たちは、みんな「エロス神」なんです。
プラトンは「少年愛」という言葉を使っていますが、これって、つまりは、何かに憧れ、その憧れの対象に近づこうとする若者の生きざまのことを指しているんだろう、と僕は解釈しました。
だからこそ、『饗宴』の中で、ディオティマは、教師であるソクラテスにこう語ったんだと思います。
「あなたは、その青少年たちを見て、有頂天になっております。いや、あなたにかぎらず、自分の愛する少年をいつも目の前にして共にいられるものなら、それこそ、飲み食いも何のその、ただただ彼を見つめ、彼と共にいることをいとわぬあなた方です」(211d)。
子どもたち・若者たちのエロスに、いわば触発されるかたちで、教師の愛も動き出すんですね。僕自身、エロスの愛をもって生きている学生を見ると、なんだかよく分からないパワーが出てくるし、なんでもしてあげたいという欲望にかられます(これがまさに「教育的愛(Pädagogische Liebe)」なのでしょう)。
もしあなたが「よりよい人間になりたい」「(今よりもっと)素敵な人間になりたい」「もっと美しく生きていきたい」と欲求しているのであれば、まさにあなた自身が「エロスそのもの」なんです。(エロスはもともと、最も若い神さまのことでした)
そのエロスの愛をもつあなたは、よりよい素敵な人間(たとえば教師や保育士等)になるために、貪欲に学ぼうとするでしょう。そうした若者たちの姿に、きっとソクラテスやプラトンは、エロスを見たのだと思います。
逆に、高い理想をもたず、何の憧れも抱かず、ただただ肉体的で快楽的なその場しのぎのエロスだけで満足しているのであれば、それは、エロスという生き方をしていない人、ということになります。
「今だけ楽しければいい」「彼氏とラブラブしていればそれでいい」「高い理想なんて要らない」「ありのままでそのままでいい」と思うことを否定することはしませんが、それは、(プラトン的な意味での)エロス的な生き方ではない、ということは言っておきたいかなって思います。
まず、自分が最高に美しい人間になりたい!と思うこと。そして、そのモデルを見つけること。そして、そのモデルに必死に近づこうとして、もがくこと、模倣すること、なろうと努めること。
『饗宴』の中で、ソクラテスは最後にこう語っています。
「ぼくにかぎらず人はみな、エロスを崇めるべきことを主張し、ぼく自身もまた、恋の道を尊び、怠らずにその修業にはげみ、それを他の人々にも勧告し、そして、現在もこれからも変わることなく、力の及ぶかぎりエロスの力と勇気とを讃えるわけだ👴」
この言葉、すごくカッコいいなぁって思います。
僕もこれからも変わらずに、自分の理想を描き、その理想に向かって突き進もうとする学生を応援したいし、また、自分自身も自分の高い理想に向かって、エロスの力を借りながら、死ぬその時まで突き進んでいこうと思います。
そんな若者たちのエロスと僕のエロスが交わった時に、ものすごい力が生まれるんですね。
僕もエロスの力と勇気を心から讃えたいと思います。
…
PS
毎月第四土曜日にやっている「第四土曜日の会」ってまさにエロスの愛で続いている研究会だと思います。
より高い理想に近づきたい、本当の保育をやりたい、ホンモノの保育士になりたいと思う気持ちをもった卒業生たちが来てくれるプライベートな研究会。
一人も集まらなかったら即解散、という設定で続けて、もう15年以上。
エロスの愛は、ずっと続いています。
今後、消えるかもしれないし、消えないかもしれない。死と不死の間を彷徨っています。
エロスの愛が途絶えた時、第四土曜日の会も「終焉」を迎えるわけですね😊