ウォルト・ディズニーのウォルトという名前は、父イライアス(カナダ生まれのキリスト教徒)の友人&牧師のウォルター・パーのウォルターから付けられた名前なんですね。
幼少期のウォルトは、キリスト教の教えを多分に受けていました。
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さて、、、
これまで4回にわたって、「エロス」と「フィリア」について考えてきました。
エロスは、一言で言えば「上への愛」であります。
フィリアは、一言で言えば「横への愛」であります。
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とすれば、次に来るのは、「下への愛」ということになります。
下への愛は、究極的には「神さまと人間の間の愛」ということになり、それを「アガペーの愛」と呼ぶことにします。
そして、その神さまからの愛を受けて、人が人に与える愛のことを「カリタスの愛」と呼ぶことにします。
アガペー(agape:愛)はギリシャ語であり、
そのラテン語がカリタス(caritas:慈善)となります。
基本的に同じ意味ですが、ニュアンス的に若干違う、というのが僕の解釈です。
今回は、まず「アガペー」という言葉について考えていきましょう。
アガペーは、キリスト教で用いられる愛であり、宗教的な愛なのですが、この記事では、あくまでも「愛」のキー概念として、学術的に捉えるに留めておきます-のちの恋愛論に大きな影響を与えている言葉でもあるので…-。
(また、赤ちゃんポスト設置者たちもこのアガペーの愛の実践としてこれを運営していたりします)
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おそらく多くの人が「無条件の愛」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
あるいは、「無償の愛」という言葉も聞いたことがあるかと思います。
その無条件の愛や無償の愛が、今回扱う「アガペーの愛」であります。
この動画の話は「アガペーの愛」の基本的な知識がいっぱいつまっています。
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まずは、アガペーの愛とは何なのか。
これは、宗教的な問いであるのと同時に、学問的な問いでもあります。
僕が大事にしている『現代哲学事典』の説明文を見てみましょう。
…神の愛であるアガペー〔希〕agapeは、人間的な立場に対する超越性をもち、純粋に無動機の他者実現の道である…。
…キリストは、神でありながら、愛ゆえに、人の肉を受け、受難の苦しみをなして死に至り、そのことによって愛(アガペー)を実現し、神の人格と人の人格との交りを可能にした。ヨーロッパの「人格的な愛」を育てる上に、決定的な要因となったのがキリスト教とその愛であることは疑い得ない。
現代哲学事典、p.20
これまでのエロスもフィリアも、人間の愛にかかわる概念でした。
ですが、アガペーの愛は、ずばり「神の愛」だというのです。
つまり、この世の中の物質的な世界を超えた(=超越的な)存在とのあいだの愛の話になります。
神の人格と人間の人格とのかかわりや交わりが、アガペーの愛です。
と同時に、純粋で、且つ無動機(=無条件)の他者への(神的な)愛情がアガペーの愛ということになります。
またそれは、卓越した人格者の愛ともいわれ、最も(自己犠牲的な)尊い愛のことを指します。
キリストの愛、マザー・テレサの愛、ガンジーの愛、キング牧師の愛etc...
超越的で、純粋で、無動機で無条件の弱き他者に向かう愛を貫いたアガペーの愛の実践者たち。
究極的には、命とひきかえにおのれの敵を愛する、という無条件で無動機の愛。
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もう一冊、僕のお気に入りの『教育思想事典』の文章も載せておきましょう。
・一般にアガペの愛は、全知全能の絶対者としての神が、等しく罪のうちにある被造物としての人間を、そのエロス的価値の有無を超えて無条件無差別に赦し救うべく、ひとり子イエスをキリストとしてこの世に遣わしたことに根拠づけられている。
・イエス=キリストは、自身には微塵の咎(とがめ)もないにもかかわらず、万人の罪を背負い、自らを犠牲に供した(捧げた)のちに蘇って、神の愛を証したのであった。
・この証の内実を、愛の対象が主体の価値的自己向上のための手段なのではなく、むしろ愛の主体こそが対象を活かすための手段であることと捉えるとき、アガペとしての愛は、キリストの業にならい、すすんで自己を愛の対象へと投げ入れ、神の名のもとに対象と主体とを生の新たな意味次元に一挙に再生させようとすることであるといえる。
少し理解するのが難しい文章ですが、これがアガペーの愛のエッセンスと言えるでしょう。
エロスの愛は、たしかに自分自身の向上を目指す愛であり、その時の愛の対象(イデア、師匠、理想)を活かすことなんて考えていません。愛の対象は、自分自身の向上や快や損得の手段であり、その対象のために何かをするわけではありません。
また、フィリアの愛は、お互いにお互いの徳に触れて、お互いに好意を寄せあい、それをお互いに知っているような愛であり、こちらもまた自分自身の向上が入り込んでくるような愛でありました。
けれど、アガペーの愛は、愛の対象から何の利益も喜びも徳ももらえず、また愛の対象から自分自身の向上を引き出してもらうこともないまま、自分自身が相手の利益や喜びや徳のための手段となるような愛なのです。
利己的な愛ではなく、利他的な愛へ!、ということになります。
自分の利益ではなく、相手の利益のために、いわば「自己犠牲的」に献身的に相手にわが身を捧げる愛…
これだけだと、あまりピンときませんよね。
上の教育思想事典に、こんな文章が出ていました。
「われわれが日常の生活の中で特別にいとおしさを感じ心を傾けている対象を思い浮かべるとき、われわれは、対象のもつエロス的価値がどうあれ、ときに自己のすべてを供してでもその対象の役に立ちたいとの強い願いを抱くこともまた、紛れのない事実であろう」(p.2)
赤ちゃんにせよ、子どもにせよ、障がいをもった人にせよ、あるいは死の床に伏している人にせよ、そういう弱き存在に対して、いとおしさやいつくしみの心を抱き、その人のために何かをしたい、尽くしたい、力になりたい、という願いもまた、アガペーの愛(の一部になるもの)であり、「愛すること」の実践になるんですね。
自分の利益のためではなく、子どもや障がいをもった人らの利益のために、自己犠牲的に動くことは、それ自体が「愛する」ということであり、その愛のことを、アガペーの愛と呼んできたのですね。
例えば、イエスはある金持ちの男にこう言っています。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書、第十章21)
自分が持っているものを売り払い、それで得たものを貧しい人々に与えよ、と。これもまた一つの「自己犠牲」であり、また、「わたしに従いなさい」というのまた、自己犠牲…、というか、(ひとりよがりで生きるのをやめて)神の命令を聴くことであり、神からの愛を引き受ける、ということになりますー命令を聴かなくとも、神からの愛は受けるのですが…ー。
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アガペーの愛は、基本的にキリスト教の思想の根幹にかかわります。
まず簡単に言えば、エロスの愛は、自分自身の向上のための(自分のための)愛であり、
➀神さまからの愛
➁神さまへの愛
➂隣人への愛
の三つの要素をもっています。
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➀神さまからの愛
多くの日本人には、最もぴんと来ないと思いますが、世界中の多くの人が「神さま」の存在を信じています。
そして、その多くの人たちが「神さまからの愛」を感じてたり、信じていたりします。
その神さまからの愛のことを、まずアガペーの愛だと考えてください。
おそらく日本の若い人たちには、あまりピンとくる話じゃないと思いますので、ちょっとした具体例を挙げたいと思います。
みなさんは、誰もいないところで、悪いことをすることができますか?!
例えば、誰もいなくて、誰も見ていないところに、大量の札束の入った財布を見つけたとしましょう。
その時に、あなたはそのお財布をどうしますか?
そのお財布を警察署に届けますか?
あるいは、誰も見ていないので、自分の物にしちゃいますか?!
もし、自分の物にしちゃうのであれば、その人には、神さまからの視線は感じていないのでしょう。
でも、もし、誰もいなくても、誰かに見られていると思うのなら、その見ている存在が、あなたの内なる神さまになるんですね。
「自分は、物理的な存在を超えた超越的な存在から常に見られている」と思うかどうか。
そこが、神さまの存在を感じ取っているかどうかの「境目」になるでしょう。
神さまというのは、決して姿を見せることはないけれど、常にいつでもどこでもあなたを見ているんです。
そういう存在から受ける愛のことを、まず「アガペーの愛」と考えておきましょう。
なので、アガペーの愛を実践している人は、何らかの神的な(超越的な)存在から愛されているということになります。(この点は、実はとてもとても重要なポイントになります)
子どものために、他者のために、自己を犠牲にして、献身的に愛する人は、それ以前に、自分自身がなんらかの超越的な存在に愛されているんです。とすると、(彼氏彼女や夫妻や親などではなく)なんらかの超越的な存在に愛されていることが、アガペーの愛を行う上で、とてつもなく大事になってくるんです(もっと言えば、「自分は絶対的な誰かに愛されている」という信念?実感?確信?がなければ、愛するという能動的な行為はできないんです!)。
僕は、無信仰者で、哲学愛(フィロ・ソフィア)の人間ですが、なんとなく絶対的な超越者から愛されているなって感じています。どうしてそう思うようになったのかについては、よく分かりませんが、、、
➁神さまへの愛
神さまから愛を頂いていると思っている人は、その神さまへの愛をもたなければなりません。
神さまを愛しなさい、というのが、聖書の教えとなります。
この「神を愛せ」という命令(いましめ)、あるいは「神の命令を守れ」という命令(いましめ)は、結構きつめに出されています。「嫌だ」ということは許されないといいますか。そこに「No!」と言うことはできないような教えなのです。
新約聖書の中で、ある法律の専門家がイエスに「すべての戒(いまし)めの中で、どれが第一のものか」と尋ねると、イエスはこう語っている。
「『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
このように「マルコによる福音書12章」(同様のことは「ルカによる福音書」にも)に記されています。
30の部分(旧約聖書のモーセ五書)が、まさに神さまへの愛にあたります。
「You shall love the Lord your God with all your heart, and with your soul, and with all your mind.」
これは、つまりは、全身全霊であなたの神である主を愛せ、というわけです。
それと同時に出てくるのが、➂の隣人への愛であります。
➂隣人への愛(カリタスの愛)
「隣人を自分のように愛しなさい」
「You shall love your neighbor as yourself.」
このフレーズは、とても謎に満ちています。
もともとは旧約聖書の「レビ記」19章の18節にある言葉です。
「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ記19章18節)
あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい、という命令をどう理解するか。
これを意訳すれば、「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」ということになります。
…
ここで僕らにとって一番の問題は、「自分自身を愛していない人」はどう隣人を愛せばよいのか、ということです。
自分自身を愛せていない人は、この命令をどう実現すればよいのか。これは、わりと普遍的で解決困難な問題だと思われます。
これをもう少し広げていえば、「自分をケアできていない人は、どう他人をケアすればよいのか」、「自分を教育できない人は、いったいどう他人を教育するというのか」、「自分を大切にできない人は、いったいどうやって他人を大切にすればよいのか」といった問いにつながっていきます。
だから、教育や保育や福祉の教科書では、「自分をケアできなければ、他人をケアすることはできない」とか、「自ら学べない者は、人に教えることはできない」とか、「自分を大切にしている人だけが、他人を大切にすることができる」と書いてあったりするんですね。世界中の教科書でそう書かれています。
このことは、保育とも直結します。
山梨英和こども園の園長の石川建先生は、この聖書の一文を紹介した後に、こう解説しています。
「隣人を自分のように愛するということで難しいのは、私たちが自分を大切に考え、自分自身を愛することができているかということです。自分を愛するというと、自己中心的、自己愛が強すぎる、ナルシストなどマイナスのイメージもあります。でも、自分を大切なものと思い、自分を愛せない人間がどうして隣人を愛することができるでしょうか? 乳幼児期に十分な愛情を注がれなかった子どもは、時には愛着障害などの症状が出る場合もあります。したがって、自分を大切に考え、自分を愛すことができるようになるためには、愛されることが必要です。自分が愛されていることを理解している子どもは、きっと自分が受けている愛情を自分以外の人や物に注ぐことができます」(引用元はこちら)
この一文は、僕も心から共感しますし、僕も同じようなことをどこかで書いていたりもします。
隣人を愛するためにも、まずは、自分自身が➀超越的な存在に愛されること、そして、②その超越的な存在に愛されている存在者(愛されている者)から愛されることがとても大切になってくるのです。
アガペーの愛は、宗教的な愛ゆえに、宗教家においては、➀の超越的な存在からの愛が問題になりますが、教育や保育や福祉においては、②の愛がとてつもなく大切になってくる、ということです。
ここで重要なのは、愛する人もまた愛されているということが必要不可欠だ、ということです。
エロスの愛も、フィリアの愛も、その根底(前提)には、超越的な存在から愛されているということ、また、その超越的な存在に愛されている者から愛されているということがあるんです。
最も善きものに憧れて、その善きものになりたいと欲望するエロスも、快や有用さではない互いの「ひととなり(徳)」を認め合うフィリアも、その根底には「何か誰かに愛されている」ということがなければならないんです。(このあたりが、ボウルビィやエリクソンやフロイトの根っこにあるものだと僕は思っています)
なので、僕は若い人たちに(たとえ嫌がられても)いつもこう言っています。
「真に愛する人になるためには、恋人(異性愛の対象等)ではない別の人(自分より上の人)にしっかり愛されて大切にされてほしい」
と。
愛情に欠けた多くの若い人たちは、その愛の欠如を、「恋人」からの愛情で埋めようとします。
けれど、その恋人からの愛情は、残念ながら、そのほとんどが「快」か「有用さ」を求めての愛情なんです。その恋人は、その人自身が快や喜びを得ようとしたり、自分の利益(例えば「かっこよくて優しい彼氏」や「かわいくて笑顔が素敵な彼女」を友だちに自慢して賞賛されたいetc.)を得ようとしたりして、あなたを求めてくるんです。と同時に、あなたもまた、自分の利益や快を得ようとして、彼氏や彼女を求めているんです。
これが世の一般に知れ渡った「恋愛」なんです。
でも、そういう愛は、残念ながら「アガペーの愛」ではありません。
無条件の愛ではないですし、無動機の愛でもありません。
(また、エロスの愛でもなければ、フィリアの愛でもない、というね…(;´∀`))
男女間の恋愛は、むしろ条件だらけの愛ですし、動機(欲求)まみれの自己中心的な愛であります。(マッチングアプリでは、たくさんの条件を付けることができるんですってね!)
なので、条件だらけの異性愛的な恋愛をいくら経験したところで、「(自分より上の人に)愛されている愛する人」にはなれないんです。こういう話は、これまで嫌ってほどに聞かされてきました。
これから先、真に「愛する人」になろうと思う人は、まず自分自身が無条件且つ無動機に愛されることを一番に考えてほしいなぁ、と願います。そのためにも、世俗的で利己的な恋愛(アモール)から一歩離れてみてほしいなと思うのです。
(でも、くれぐれも怪しい団体や怪しいグループには注意するように!!💦💦)
…
とりあえず、アガペーの愛のイメージはついたでしょうか。
では、いったい「隣人を愛せ」というところの「隣人」とはいったい誰なのでしょうか?!
次回、この「隣人とは誰のことか」について考えてみたいと思います。
愛さなければならない隣人は、いったい誰なんでしょう?!
…
アガペーの愛は、倫理学の研究対象になります。
この本もまた、本シリーズのよい教科書になりますね👆
「子どもたちと両親のためのアガペー」という本もあります。
ドイツ語のフィリア、エロス、アガペーの本です。
隣人愛の本も多数あります。
これもまたこの恋愛交差点シリーズのテキストになりそうです。