不定期連載【恋愛交差点29】です。
今回は、第28話の続きとなります。
フィリアの話の続編であります。
救ったはずが救われたって
握ったつもりが握られた手
…
今回は、フィリアの愛の中の「愛すること」についてです。
愛することと愛されること
とは何か?!
愛をこうやって二つに分けることで、愛の見えない部分が見えてきます。
前回述べたように、フィリアの愛は「自分」がいて「他者」がいます。
(己の欲求である)エロスの愛と違って、自分の愛情の問題と同じくらい他者の愛情が問題になります。
アリストテレスによれば、
「愛(フィリア)というものが存在しうるためには、…お互いに好意を抱いており、お互いに相手かたのにとってのもろもろの善を願っているということ、そして、それのみならず、そのことがそれぞれ相手かたに知られていることが必要である」
ということで、相手の側(他者)の好意や願いも重視されているんです。
愛する側と愛される側、好意を寄せる側と好意を寄せられる側の双方が問題となるんですね。
人間と人間のあいだで生じる愛(フィリア)では、つねにこの双方が問題となります。
握る手と、そして握られる手…
…
エーリッヒ・フロムは、『愛するということ』の冒頭で、こんな風に言っています。
「まず第一に、たいていの人間は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ」(p.12-13)。
「愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を見つけることはむずかしい――人びとはそんなふうに考えている」(p.13)。
30年くらい前、この文章を読んだ時、「ああ、僕もいつも愛されることを問題にしてきたな」って思いました。
「どうしたら好きになってもらえるか」「どうしたら気に入ってもらえるか」「どうしたらデートに誘いこめるか」「どうやったら相手の気持ちをときめかせられるのか」「どうやったら好意をもってもらえるのか」「どうしたら付き合ってもらえるのか」「どうしたら…」「どうしたら…」…と。
愛される努力は必死にいっぱいやってきたけど、でも、じゃ、愛する努力ってはたしてやってきたかな?…。この文章を読んだ時に、僕の中で、「愛されること」から「愛すること」へ、という考え方の大きな変化が生じたのを覚えています。
「どうしたら僕はあなたをちゃんと愛したと言えるのか」、と。
このフロムの指摘でも「愛する側」と「愛される側」が問題となっています。
そして、現代人は、愛されることだけを考え、愛することについては何も考えていない、と警鐘を鳴らします。
そうフロムは考え、そのことを『愛するということ』の中で色んな仕方で考えています。
…
この「愛すること」と「愛されること」を区別して考えるフロムは、きっとアリストテレスの『ニコマコス倫理学』も読んでいたに違いないと思います。
そして、このニコマコス倫理学のフィリア論のところを読み、『愛するということ』を書いたんじゃないかな?と思います。
古代ギリシャにおいても、フロムが生きた20世紀においても、また僕らが生きている21世紀においても、人はず~~っと、「愛されること」を問題にしてきました。
どうしたら愛されるのか、どうしたら愛される人間になれるのかについては、もはや「人間の知恵」ではなく、「AIの技術」や「マッチングアプリ」によって教え導かれるような時代に入っていきました。
男性の3人に1人が生涯未婚で、女性の3.5人に1人が生涯未婚の今の日本では、フロムの時代以上に「愛されること」が大問題になり、「愛すること」への問いは、完璧に忘れ去られてしまっているように思います。誰もが愛されず、愛されることを希求し、しかし誰にも愛されずに孤立する、みたいな…(それだけ余裕もないんだと思いますが…)。
でも、そんな時代だからこそ、「愛すること」の意味についてしっかり考えてもいいのかな?って思うんです。
というのも、「愛することができる」ということが、実は、最も「愛されるための最大の技術」だからです。
愛することができればできるほど、よりよい友(恋人)が集まってくるんです(実感あり)。
また、誰からも愛されていないと思う人は、愛されない理由(見た目や性格など)がどこかにあるのではなく、愛するということを学んでいないからなんです。ここをしっかりクリアすれば、その人も愛される人間になることはできるんです。
ただし、愛することを実践的に学ぶことはとても難しいことでもあります。フロムの本の後半はそのプラクシス(練習)について書いていますが、それらを実際にやるとなると、今の現代人はきわめて難しいものばかりです。
…
今回もまた、アリストテレスの見解に触れながら、話を進めたいと思います。
愛することと愛されることについて、アリストテレスはこう語っています。
「愛というものは、愛されることによりも、むしろ愛することに存すると考えられる。愛するということをもって悦びとしている母親たちがまさしくその証左である」。
ここで、「される」よりも「する」という点が強調されています。
これは、愛されるという「受動(受け身)の姿勢」ではなく、愛するという「能動の姿勢」こそがフィリアの愛なんだ、ということになります。
愛するの「する」に力点が置かれているので、エロスの愛のような「欲望」ではなく、愛するという「行為」が重要になってきます。行為論としての愛すること。これがアリストテレスの大きなポイントだと思われます。
何をしたら、愛することになるのか。何をしたら、愛したことになるのか。
アリストテレスは続けて語ります。
「愛はむしろ愛するということに存するのであってみれば、そして「友を愛するひとびと」は賞賛されるのであってみれば、親愛なひとびとの卓越性(アレテー)なるものは、愛するということにあるように思われる」(1159a)。
ここでも「する」というところが強調されています。
恋愛交差点26話で触れたように、プラトンらは、知識、勇気、節制、正義をアレテー(徳)だと考えていました。
しかし、アリストテレスは、愛することをアレテー(卓越性)と考えていたのです!
つまり、友を愛する人は、愛することができるが故に「卓越した人間」と言えるだろう、と言うのです。
「お互いの間においてこの愛するということが価値に応じて行われているひとびとは持続性のある友であり、彼らの愛は持続性を帯びている。均等ならぬひとびとがやはり友たりうるのは、何よりもかかる仕方においてである。これによって彼らは均等化されるわけだからである」(1159b)。
愛することを価値あるものとして実際に行っている人たち同士のフィリアの愛は、持続性を帯びている、とアリストテレスは言います。
終わらない(持続性と永続性をそなえた)友情や愛情を実現するためには、お互いが「愛すること」を価値あるものとして認め、そして、実際に「愛すること」を行うことが不可欠なのです。
「親しさは均しさであり類似性…にほかならない。けだし、このようなひとびとは、そのひととなり(エートス)に基づいて持続性のあるひとびとなるがゆえに、お互いに対しても終始変わることがないのであり、あしきことがらを相手から要望することもなければ、そういうことがらを相手かたに施すこともなく、むしろそれを妨げるたちのひとびとなのである。事実、自らも過ちを犯さず親愛なひとたちにも犯させないのが善きひとびとたる特徴をなしている」(同)
「愛すること」をしている人と「愛すること」をしている人が(友人であれ恋人であれ)フィリアの愛で結ばれた時、その愛は、何も悪いことが起こらないので(むしろ悪いことをお互いに止め合うので)、終わることがない、と言うのです。
これは、単に「相手がたに」というだけではなく、お互いの日々の日常生活の中で(お互いに対してだけでなく)「愛する」という行為を行っているもの同士の話だと受け取りたいところです。
たとえば、誰かに対して愛すること(ケアすること)を行っている時、その姿を見て「素敵だな」と思う時に、それを見た人は、その愛するという行為をしている人に対して、その人自身のアレテー(愛すること)に即して、好意を寄せるわけです。それをお互いに感じ取る時、その愛はまさにフィリアの愛になる、と言えるのかな、と思います。
子どもたちに対して、愛情をもって、そして実際に愛する行動をしている教師や保育者を見て、素敵だなぁと思うのもまた、フィリアの愛の一つかもしれませんね。
そう、アリストテレスは、親と子の間においても、夫と妻の間においても(また教師・保育士と子どもの間においても)、「対等」で「均等」であれば、フィリアの愛は成立する、と考えていました。
「いまもし、両親に対して子は自分の生みの親たるひとびとに当然尽くすべきところのものを尽し、親はまた子に対してその尽すべきを尽すならば、このような両者の間における愛は、持続性もある立派な愛となるであろう」(ただし、一方が優越の上に成立する場合は、フィリアの愛ではなくなる)。
…
では、実際のところ、いったい何をすることが「愛すること」になるのでしょうか?!
これについては、残念ながらアリストテレスはあまり多くを語っていません。(アリストテレスはこの話のあと、第9章以降、「共同体」の話を展開していきます。フィリアの愛をもつ人が共同体をつくり、その「共同体のつながりの中に自己の存在根拠を捉えるとき、真の充足を得、真意よき者となる」んですね(岩田靖夫、西洋哲学史の基礎知識より)。また、夫婦愛については、2300年前の文章とあって、あまり参考にはなりません…💦)
けれど、アリストテレス以降、世界中の人たちが「愛することは何をすることか」について語っています。
誰に何をどうすれば、「愛すること」になるのか。
愛することを行うというとき、何を行えば、愛する(愛した)という行為になるのか。
相手に喜びや快適さを与えることなのか。相手の利になることをすればよいのか。あるいは…?!
これを真面目に考えたのが、キリスト教系の人たち(特にアウグスティヌスやルターなど)でした。
エロスの愛、フィリアの愛に続いて、今度はアガペーの愛とカリタスの愛について考えていきましょう。
アガペーの愛は「無償の愛」と訳され、カリタスの愛は「隣人愛」と訳されています。
無償の愛とは何か。
そして、隣人愛とは何か。
これが、次の恋愛論の大きなテーマになります。
(キリスト教哲学では、エロスの愛は(欲望の愛ゆえに)「奪う愛」だとしてめちゃめちゃ叩きます…💦)