Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「愛着(Attachment)」に潜む両義性―母子は美しいのか、それともグロテスクか?

心理学で扱われる「愛着」という概念は、きわめて捉えるのが難しい概念である。

愛着というと、すぐに思い浮かぶのが母子関係の身体的・物理的結びつきである。日本の愛着研究を専門とする荘厳舜哉は、ボウルビィの愛着理論について、こう説明している。

「ボウルビィ(1988)は、その愛着理論において、親子の物理的距離の近接性が子どもの安定的な発達において重要であることを指摘したが、なかでも近接性と身体接触の量は愛着の質に直接関わってくる」

ここで、荘厳が「親子の物理的距離の近接性」というところで、「親子」と限定しているところが、問題なのである。愛着は、親子の結びつきを指す言葉なのだろうか。

だが、ボウルビィ自体は、親子、つまりは母子の親近性とは言っていないのだ。ボウルビィは、愛着を母子関係に見ていたのか、そうでないのか。これはとても重要で、もしボウルビィが母子関係に愛着を見ていたとすれば、母子関係が極めてやせ細り、崩壊寸前となっている今日の社会には、愛着は多くの家庭において存在しないことになる。また、ボウルビィが母子に限定しないで愛着を語っているとすれば、多くの論者が何らかの意図(無意図的な意図)で愛着をねじまげて解釈しているということになる。

ボウルビィは、愛着をどこに見ていたのか。母子関係に愛着を見たのか。

結論から言えば、ボウルビィは、母に限定してはいない。訳語になるが、ボウルビィは「母性的人物」と言っており、この母性的人物の存在を問題としているのである。「母性的人物へもっとも接近した状態を保持するように幼い子どもを導く行動(それは愛着行動と呼ばれる)は、本能行動の一例である」、と言う(1976=161)。この母性的人物とはいったい誰のことを指しているのか。『母子関係の理論①愛着行動』第Ⅲ部第11章の原注で、ボウルビィは、わざわざこう断っている。

「この本では母性的人物よりも、母親という表現が一般的に用いられるが、この場合の母親は生みの親というよりも、子どもに母性的愛撫を与えたり、子どもが愛情を感じたりする人物のことと意味している」

この一文から、ボウルビィは愛着を狭く母子に限定しているわけではない、ということが分かる。だが、愛着行動は哺乳類の全種に認められる、と考えており、この原注は、人間に限って言えば、母子に限定しない、というニュアンスを秘めている。「愛着行動と養育行動は、ふ化後間もなく巣立つ地上巣ごもり鳥類(ground nesting birds)には共通にみられる現象で、両行動とも哺乳類の全種に認められる」、という(1976=221)。

フロイトに強い影響を受けたボウルビィにとっても、人間の母子関係は他の動物と違い極めて成立するのが難しいものであったのだろう。だから、母とは言わずに、母性的人物とあえて呼んでいたのだろう。

問題は次の点にある。このようにボウルビィの書物を読めば、すぐに愛着が実際の母子(実親と実子)関係に限定されていないということが分かるはずなのに、荘厳のように、「親子」や「母子」の中に、愛着が見出されてしまうのだろうか。少なくとも、数年前までは、「愛着関係」とは、「母子関係」を指すものとして、一般に語られてきたように思われる。

ただ、最近は、母、母親、親と子の関係とは言わずに、「養育者」と子の関係に、愛着を見ようとする傾向がみられることにも注意したい。養育者と表記すると、愛着の対象が親子に限定されず、ボウルビィが表記した「母性的人物」と子に広げて解釈することが可能となる。

おそらくボウルビィも、分かっていたはずだ。妊娠し、出産したすべての母親が愛着行動を(本能的に)きちんとできるわけではない、ということを。

とすると、子どもの成長や発達、いや、子どもの人生にとって、重要なのは、実親に育てられることではなく、きちんと愛情行動という責任を果たし得る存在に育てられることだ、ということになる。親密な他者との具体的・親密な親近性それ自体は、未だに否定されてはいない。だが、親子関係(それどころか家族関係)が多様化し、解体し、崩壊に向かっている今、われわれが考えなければならないことは、子どもが可能な限り早いうちに、愛着行動に向かわない実親を支えること、ないしは、そうした実親から子を引き離すこと、となる。

母子は、常に美しく語られるが、そうした美しい関係を生きる母子だけで、世の中が成り立っているわけではない。というよりも、そうした美しい母子関係を生きられる母子がどれだけいるのか。

母子は本当に美しい関係なのか。母子はともすれば、殺し合いの関係になる。ないしは加害者と被害者の関係になる。産まれたばかりの新生児は無力、非力な存在であり、完全に親に従属することとなる。母子は、美しい側面を持ちながら、その一方で、支配関係にあり、さらには極めてグロテスクな関係に陥る危険をもっている。母親が未熟であるなら、その子どもは最悪の環境の中で生きなければならなくなってしまい、その後の人生に深い傷跡を残すことになってしまう。かといって、母子を引き離すことがそう簡単にできるとも思えない。

ただ、愛着理論は、一つの理想を提示している。子どもが愛情をもちえないような親は、母親的人物ではない、すべての母親が、愛着行動を示すわけではない、と。

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