「ふくし」の根源(プリンシプル)とは何か。
定番的には、「福祉」=福+祉と切り分けて、福=幸せ、祉=「福祉」という言葉にしか使われないイレギュラーな漢字で、福と同義で幸せという意味、と説明すればいいんだろうなぁ・・・ で、ネ(しめすへん・ねへん)は「神霊の降下」という意味で、福も祉も、神や社や祈や礼といったものに近い概念だ、といえばいい。でも、そうすると福祉=幸福論や宗教論になってしまって、実際とずれてきちゃう。僕は、もちろん幸福論も宗教論も大好きだけど、どちらかというと幸福論よりも不幸論の方が好きだし、不幸論を唱えたほうが「ふくし」にイメージが近いんだよなぁ・・・
で、次の定番は、ふくし=Welfareとして、well+fare、つまり、うまく走る、うまくまわる、上手に乗り物に乗って行く、という解釈を示して、色々論じていくこと。ドイツ語でも、Wohlfahrtと表示され、英語と同じような意味になる。・・・ノーマライゼーションもこの語の語感に基づいている。「可能な限りノーマルな生活を送ることを実現すること」っていう定義があるけど、それも「とりあえず一日をうまくまわすこと」というwelfareの語感に限りなく近い。けれど、ちょっと意味が広すぎて、「ふくし」の根源をつかむ説明になりきれないような気がする。
この二つが、「ふくし」の原点というか、「ふくし」の原理の説明によく使われている。ふーむ、、、けれど、正直、あまりピンとこない、というのが僕の実感だ。なんかキレイゴトのように聴こえるし、どこか他人行儀な感じがする。もちろんその意味自体は妥当だし、そのとおりなんだけど、なんとなくリアリティーを感じない。
かといって、「弱者救済!」といったような大げさなスローガンもやっぱりピンとこない。「弱者」って言っている時点で、なんか俗っぽいし、真理を隠蔽している感じがする。強者が弱者について語るのもなんか変だし、かといって、いわゆる「弱者」が弱者を主張しても、その弱者のあいだでまた細かい差異が存在する。強い弱者が弱者を主張することで、他の弱い弱者がまた隠蔽される、ということは多々生じている。(例えば発言権のある五体不満足の人が五体不満足のたいへんさを語れば語るほど、他の五体不満足の人がその人に対して違和感や反発心や猜疑心を抱くようになる・・・みたいな)
では、「ふくし」の根源とは何か。いや、14年くらい「ふくし」にかかわってきて、僕がピンとくる「ふくし」の根源の説明ってどんなのだろう?!
とりあえず、「ふくし」は、人間の生活(Leben/Life)全体にかかわるものだということ(医者は患者の肉体にかかわるが、患者の生活全体にはかかわらない)。そして、人間の日々の暮らしに関与する営み、といえるだろう。でも、それだと何の深みもない説明になってしまう。だったら、「人間の危機的状況にかかわる営み」としたら、どうだろう。危機的とすると、なんとなくピンとはくるが、でもやはり救急医療の現場の人たちのことを思うと、ちょっとずれている気もするし、また精神保健や精神医学に比べると、危機の程度はやや低いようにも思える(もちろんそんなことはないんだけど・・・)
やっぱり、「ふくし」は、シンプルに、人間の不幸(あるいは貧しさ)にかかわる営み、とした方がピンとくる気がする。不幸というか、悲しみというか、悲劇というか、影の部分というか、裏の部分というか・・・ あるいは、普通に生きていない、普通に生きられない、俗人になれない、そういう人との絶え間ない交流、というか・・・(巷にあふれた孤児の救済にあたったペスタロッチを思い出したい)
「ふくし」の歴史は、人間の生活の苦しみの歴史のようにも思える。もちろんそこには常に「希望」も含まれているのだが、やっぱりかかわっていくのは、人間の不幸のような気がする。不幸と(希望という)可能性の提示、そう、<幸福と同語反復の不幸>が一番すっきりする。
人間、生きていればすべての人に不幸は訪れる。幸せな人は、ただ今がたまたま幸せなのであって、いずれ不幸がその人の下に訪れる。不幸が訪れない人はいない、そう考えたほうがすっきりくる。最大の不幸は死だと僕は思う(もちろん死を不幸と感じない人もいるだろうけど)。もちろん、死以外にもたくさんの不幸がある。別れ(離別や決別や失恋etc)、障害、老い、貧困、疾病などなど。こうした人間固有の不幸にかかわっていく営みが「ふくし」の根源だと思う。
フランクルは「それでも人生にイエスという」という言葉を残した。どれほど辛い不幸に直面しても、僕らはその不幸を受け止め、人生を肯定することはできる(はず)。もし人間すべてに不幸が与えられるとするならば、逆に、すべての人間に幸福も与えられるはずなのである。そのために必要な物資や人を提供しつづけることにこそ、「ふくし」の根源があるように思う。河上肇はそのことに気付いていた。ゆえに、「ふくし」は、仕事として不幸な人にかかわること以上のことが含まれている。最大の不幸は共に悲しんだり、共に苦しみを共にしてくれるパートナー(友人や家族や連れ)がいないことだと僕は思う。
「ふくし」は、根本的には、メアリーリッチモンドが言ったように、「施しではなく友愛を」ということなんだろう。僕は、「ふくし」にかかわる人間として、友愛にこだわり、友愛の精神をもっともっと探求し続けていきたいと思う。そういう意味では、「ふくし」とは、友愛を実現する終わりなき旅、って気がする。だから、「ふくし」はやはり理論学ではなく、実践学でなければならないし、個別の科学や学問体系ではなく、実践哲学でなければならないのだ。