毎年、色々感じる卒業式。
(昨年の卒業式の記事はこちら!)
今年も卒業式の時を迎えることになった。
まずは卒業生の皆さん、心よりおめでとうございます☆
(ま、あんまり卒業生とか読んでないと思うけど、、、)
***以下、ぼやきなのでご注意ください***
学生たちにとっては最後の学生生活となり、
ほとんどの人間が社会へと巣立っていく。
尾崎豊がかつて「この支配からの卒業」と歌っていたが、
実際には、「支配への卒業」である。
社会に出たら、歴然とした支配―被支配の関係がある。
学校の教員ももちろん支配関係の中にいるかもしれないが、
世の中はもっともっとキツイ支配関係の中にある。
卒業式とは、最後の自由の空間であり、
子どもからの卒業であり、厳しい現実への卒業なのである。
だから、それなりの緊張感とそれなりの態度で臨んでもらいたい。
だが、現実はそんなに甘いもんじゃない。
だから、毎年、僕は憂いたくなる。。。
お世話してない学生については、何もいうことはないが、
さんざんお世話になっておきながら、
「お世話になりました」と言う学生がホント少ないこと少ないこと。。。
タテマエでもそう言うのがある種の大人の礼儀だと思うが、
そういう礼儀がない学生が多くて、毎年愕然とするのだ。
だから、卒業式での僕の態度もますます変になっていく。
本当の本当に卒業式が憂鬱で仕方なくなってしまった。
多分、心に描く卒業式とかい離し過ぎているんだと思う。
僕は教師になりたい夢があって、それで先生になった。
卒業式には、ある種の美化が働いていると思う。
でも、現実の卒業式~謝恩会(卒業パーティー)は全っ然違うのだ。
昨年は(記事を見ると)それなりに満足しているようだったけど、
基本的に毎年毎年、卒業式が重荷になり、負担になっている。
きっと一年間の「答え」がここに表れているからだと思う。
結局何にも変わんなかった。教師としてやれたという実感もなかった。
そういう「わびしさ」だけが、卒業式に映し出されるのだ。
それは「別れの寂しさ」とは断じて違う。全く違う。
学問に触れさせることのできなかった寂しさであり、
知的なところではないところでの接触しかなかったことへの反省であり、
結局は、アカデミックではない関係しか結べなかったことへの悲しさであった。
僕と学生の関係なんて、学問を通じての関係でしかない。
個人的な親密な関係など全くもって望んでいないし、期待してもいない。
なのに、そういう個人的で親密な関係でしか教育関係が成り立たない。
学問を通じての関係が成立しないことへの憤りに苦しむのだ。
かといって、うちの学生を責める気は全くない。
大学院で教えたいわけじゃないし、エリートを育成したいわけでもない。
今の場所で、どこまで学問的関係が築けるか、
これが、僕の一番の目標なのである。
学問好きな人に学問を教えるのは簡単だ。
学問が何たるかを知らない人に学問を教えるのは至難の業。
だからこそ、それにチャレンジしたい気持ちがあるのだ。
…結局、一番学校になじんでいないのが僕という人間かもしれない。
卒業式の中で一人苦しみながら参加する、というもどかしさ。
感動あまって泣きだす学生を横目にしらけていく僕の心。
そう、この学生と自分との間の温度差が心底辛いのだ。
でも、結局は僕がまだ教育に期待を抱いている、ということだ。
期待があるからこそ、むなしくなるし、悲しくなるのだろう。
「まだまだこんなもんじゃないだろ?!」、という気持ちがあるからこそ、
何もできなかったことに苦しむのだろう。
ホント、毎年こんな思いになるなんて、、、(汗)
とにもかくにも、今年の卒業式も終わった。
卒業式が終われば、今度は入学式が待っている。
来年こそは、もっと気持ちよく卒業式を迎えたい。
それを目標にして、また新しい出発を迎えたいと思う。
*注
一教師のホンネとして書いてみました。
若干、常識的には書き過ぎな部分もあります。
でも、こういう記事があってもいいかな、と思い、綴ってみました。
もちろんこの記事が僕のホンネのすべてではありません。
あしからず。。。
PS
今日は、もう一つの卒業式があった。
うちのJ-BUSTERSのエリが一年間の留学を経てスウェーデンに帰国した。
昨日の夜、うちに泊まったのだが、最後の別れは名残惜しかった。
この一年間、本当によくうちに来たし、毎週のように会った。
無事に一年間の留学を終えたことに、まずは一安心である。
彼女ともしばしお別れである。お別れ、お別れ、である。
エリさんも日本留学卒業おめでとう!!
新しい素晴らしい日々をスウェーデンで送ってください!