Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

ゆとり教育と豊かな授業-教師論的な散文

今日、とある授業で受講生と討論してて、「ゆとり教育は、総合学習を入れずに、ただシンプルに授業内容3割削減だけをすれば、ゆとりある教育ができたのでは?」という意見があった。これには、納得した。その一方で、削減された分、深い学びをするための力量も同時に問われるべきでもあったかな、と。

「授業する力」=「対話的に展開していく授業を行う力」を磨き続けている先生がどれだけいるか。物事の奥深いところまで探究できる精神をもつ先生がどれだけいるのか。学び続ける先生はどれだけいるのか。そういう先生でないと、何をどうしても深い学びへとは子どもたちを導けないと思う。

子どもたちの意見を丁寧に聴き、そこから問題の本質に迫るような言葉を拾い、それを手がかりにさらに発問し、ゆさぶりをかけながら、子どもたちに問い続けていく。そういうプロセスは、相当の知性や感性をもっていないとできないこと。日々の知的トレーニングも必要だし、相当量の本を読む必要がある。

医者が患者を治すにも専門的な訓練が必要。同様に、かつ医者とは別の仕方で、教育の仕方もまた専門的な訓練が必要なのだ。が、医者と違って(又は医者以上に)、教育というのは、かなり感性や感受性や機転や応用力が問われる。当然、コミュニケーション力も強く求められるし、対話力も求められる。

飽きさせないための配慮も必要、子どもたちの能力もまちまちだから、個々の子どもたちがそれぞれ分かるように配慮しなければならない。一方的に話すだけじゃだめ。説明すればいいというものでもない。あれやこれやとうねうねしながら、ゆっくりと進んでいく営み。それは忍耐のいること。そういう仕事。

豊潤な知性も必要。だけど、パフォーマンスも必要。笑顔も必要。怒ることも必要。エンターテイメント性も必要だし、哲学的素養も必要。あらゆる知識に精通しながら、柔軟な思考も求められる。

いったい、これほどの幅の広さを兼ね備えた教師がどれだけいるのか。そういう教師を育てることがやはり一番大切なのではないか。そう簡単に「すぐれた教師」にはなれない。教師批判は常にあるけど、そんな簡単なものではない。いじめ問題然りである。力を使わずにいじめを止められる人なんてほぼ皆無。

しかも、相手は子どもたち(複数形)である。先生以外の人で、どれだけの人が大勢の子どもを相手に長い時間を過ごしているのか。子どもはかわいい宇宙人だ。宇宙人相手に、日々「大人の模範」として居続けることがどれほど大変なことか。特に教師批判をする成人男性にこれを問いたいと思う。


(ツイッターでつぶやいたものをまとめました♪)

https://twitter.com/Drkei_japan


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