僕はずばり、挫折した人が好きだ。好きだというと語弊があるかもしれない。挫折した人を目の前にすると、心が揺れて、無条件で応援したくなる。
最近、ある人が挫折をした。
その人は、これまでずっと順風満帆に人生を送ってきた。それなりに苦労はしたらしいが、出口なしの八方塞の状態に立たされたことはなかった。未来が閉ざされ、今の状況を生きることもできず、これまで培ってきたものすべてがガラリと崩れていく、そういう経験をしてこなかった。・・・とりあえずその場をしのいできた。激しい努力をすることなく、するりと人生の壁を難なく潜り抜けてきた。ちょっとした興味と些細な好奇心だけで楽しく生きてこられた。周りの人間に合わせて、それなりの笑顔を浮かべて、その場しのぎの対応をすれば、なんとかその場をやり過ごすことができた。周囲の環境も良かった。時代も、「ゆとり」の恩恵を与えてくれた。
だが、その人は、不意にも、そうした生き方すべてが通用しないような状況に置かれてしまった。自分の生き方の甘さ、もろさが一気に露呈してしまった。今までの人生すべてが否定されてしまったに等しいほどの事態だ。そして、これまで描いていた夢がすべて崩れてしまうほどの状況に立たされたのだ。
その人は、その危機の最中、そのままなんとかやり過ごすか、それとも、そのまま崩れ落ちてしまうか、という二者択一を迫られた。なんとか頑張ればその場をやり過ごすことはできそうだ。しかし、「それでいいのか?」というもう一つの声(良心の声)も聞こえてきた。その人の置かれた状況は、なんとかやり過ごすには(いろんな意味で)ハードルが高すぎた。
そして、その人は、苦悩し、涙し、葛藤し、追い込まれていった。散々悩んだ挙句、その人は、自ら、自分の人生にリセットボタンを押すべく、挫折の道を選んだ。その場にいた僕は、ただただその人の姿を見ることしかできなかった(いや、その姿を直視することはできなかった)。
しかし、苦しみぬいた後の決断、手にしかけた夢を自ら手放すという決断、その決断をした後のその人は、すがすがしい表情を浮かべていた。もちろん心情的には全然すがすがしいわけではない。心中は決して穏やかではない。きっと夜、悔しくて、きっと眠れないだろう。自分を責めるだろう。「なぜもう少し耐えられなかったのか?」、と自問するだろう。苦しみから解放されたと同時に、重い十字架を背負わされたような・・・
けれど、その人は、これまでの人生で初めて、自分の意思で自分の人生の選択を行った。これまでなあなあで済ませていたことをしっかりと悩み、苦悩し、考え抜いた。失うものは多かったが、また、それ以上に得るものもあった。その人は言った。「人生でこんなに迷い、苦しんだのは初めてですよ。でも、また、自分の人生で、自分の意思で何かを決心することも初めてでした」、と。
何かを失うことは、すべてを失うことではない。
何かを失うことで、別の何かが得られる、ということもあるのだ。
僕は、やっぱり挫折した人間が好きだ。挫折は、人を弱くさせる。そして、その人自身を完全に否定する。しかし、逆説的ではあるが、それによって、人は強くなり、そして、自身を肯定する可能性を手にするのだ。そういう人間には、目に見えない深いやさしさがある。無力さを知っているがゆえのやさしさがある。つぶれたことのない人間のやさしさには、説得力がない。崩れたことのない人間の言葉には、重みがない。どれだけ利口になって計算高くなって人をまるめこめたとしても、人からの信用を得ることはない。
逆に、挫折した人間は、そういう説得力や重みをもった言動を行う可能性を手にしているのだ(とはいえ、そのまま屈折していく人も少なくないのだろうが・・・)。自身の挫折をその後の人生にどう反映させるか。この問いは、挫折後に考えなければならない絶対条件であろう。はい上がるのか。朽ち果てるのか。
僕はその人を心から応援したいと思う。新たな出発を歓迎したい。一つのことに躓いたからといって、すべてに躓いたわけではない。何度躓いても、また何度でもまた始めることはできるのだから。これまでの生きかたとは違う別の生きかたを見せてほしいと願う。