今日、起きてyahoo! japanのトップページを見たら、奥菜恵の本の出版に関する記事が掲載されていた。
昨年5月に所属事務所を離れ、休業していた女優奥菜恵(28)がフォト&エッセーの自叙伝「紅い棘(とげ)」を4月8日に双葉社から発売する。休業の理由や結婚、離婚の真相を初めて告白。“魔性の女”と言われたこれまでの男性遍歴についても赤裸々に明かし、自ら撮影したセルフポートレートではメイド&着物姿でエロスを表現するなど衝撃的な内容だ。(引用元はこちら)
デランジェファン/crazeファンだったら、彼女がサイファと付き合っていたことは誰でも知っていることだろう。スポーツ新聞にもかつて大きな記事で紹介されていた。「アイスルココロ」は、奥菜のために作られた、というのも有名な話である(こちらも参照)。
そんな奥菜がこれまでの半生をつづった本が4月8日に発売されるというのだ。
上の記事でも、「10代の頃に押尾学(29)と交際し、その後、ロックギタリストや若手俳優との交際も取りざたされた“恋多き女”だけに男性遍歴も興味深い内容」と書いてあり、ファンならずとも気になる内容になっているようだ。
が、ファンだから知りたくないこともある。いや、ファンだからこそ、知るべきではない内容も含まれている本になっているようだ。
ミーハーな気持ちでこの本を読んでみたい気持ちはある。だが、読むことで、知らなくてもいい知識が入ってしまい、心がかき乱される可能性も高い。この本は、サイファ/一郎ファンにとって読むべきか、読まぬべきか、すごく悩ましい問いだ。
僕は、アーチストの人間性とアーチストの作品を切り離して考える習慣がある。アーチストがどんな人間で、どんな人格の持ち主なのか、ということに関与しないようにしている。好きなアーチストならなおさらである。僕自身、人生の師匠である板谷祐と話す機会は(これまでも)ないことはなかった。でも、あえて近づきたくないという気持ちがあり、HEROは「遠きにありて想うもの」という立場をとってきた。それも、人柄と作品を区別したいためであった。
偉大な芸術者の私生活は、結構悲惨だったり、荒れていたりすることが多い。逆にいえば、悲劇ゆえに崇高な作品が生み出されることが多いのだ。幸せな人間は芸術を(再現することに長けていても)創りだすことに長けていない(場合が多い)。アーチストの作品の良し悪し/出来不出来は、アーチストの人間性に必ずしも比例するわけではない。ロックに限らず、あらゆる芸術作品において言えることである。(ラーメンもまた同じかな、と。優れた人間性をもつ店主が必ずしも優れたラーメンを出しているわけでもないし、また、優れたラーメンを作っているからといって、その店主が必ずしも優れた人間性をもっているわけでもない。学問や教育も同じだ。優れた学者が優れた人間であるわけではないし、優れた授業をしている教師が優れた人間であるわけではない)
作品が良いと、その作品を生み出した人間を神聖化することも多く見られる。これを光背効果と言ったり、結晶作用と言ったりしてもいいかもしれない。簡単に言えば、「美化作用」である。小説家やタレントにおいても、こういう作用が働く場合がある。あるいは、大学教授や政治家においても多々見られる。教師は微妙なところで、優れた授業をする教師よりも、優れた人間性(っぽいもの)をもっている人の方が評価されたりする。
しかし、Nobody is perfectである。完全な人間などいやしない。不完全なのが人間である証明である。不完全ゆえに、その不完全性を乗り越えようとするのかもしれない。けれど、この人間の長い歴史の中で、完璧だった人間は存在しないわけで、この先も完璧で完全な人間は現れることはないだろう。
だが、作品はそれ自体で完結している。もちろん「未完の大作」もあるが、作品それ自体は自己完結している。もちろん良し悪しはあるが、そこには作者の人間性以上のものが含まれている。作品はそれ自体一つの主体なのである。われわれは、作品の作り手以上に作品を理解することができるのである。アーチストの作品は、それが作品となって世の中に出れば、アーチストの手を離れるのである。作品はわれわれに委ねられるのである。
つまり、作品はアーチストのものではなく、われわれに委ねられたものなのである。その作品がよければ、われわれは、アーチストからではなく、作品から何かを得るのであるし、作品に影響を受けるのである。作り手はもちろんその作品の所有者ではあるが、またわれわれも作品の所有者なのである。
こうしたことを考えると、やはり、奥菜の本は、デランジェのファンは読まなくてもよい本のような気がするのだ。もちろん「情報」としてその本の中身を「購入」することに関しては、誰も文句をいうことはできない。
けれど、ファンとしてサイファを応援する人間は、第三者の言葉に影響されるべきではないと思う。ファンは、サイファの作品が好きなのであり、彼の音に惹かれているのである。また、作品(あるいはLIVE)からかもし出される彼の世界観、人生観、雰囲気に魅せられているのである。そうした魅力は、彼という人間、彼の人格と区別しておかなければならない。
だが、そうはいうものの、とても気になるのが、凡人keiの(裏腹な)ココロである。読んでみたい気持ちも(ちょっと)あるんだな・・・(汗)