どんな人間であっても、かつては皆、かわいい赤ちゃんだった。それは紛れもない事実であろう。産婦人科の分娩室をのぞくと、そこには生まれたばかりの赤ん坊がいる。どの赤ん坊も小さくて丸くて愛おしい存在である。母親の腕の中にすっぽりとおさまるその小さな存在は、母親や医師や看護師に守られて、やがてそれぞれの家に戻っていく。一人ひとりの人間の人生は、そうした無力で弱くて儚い小さな命から始まり、そして成長し、大きくなっていく。たびたび、凶悪な犯罪が起こるたびに、「こうした加害者もかつては赤ん坊であり、かわいい子どもだったのですよね」、といったコメントが上がる。どんな凶悪犯罪者であっても、かつては無力で弱いかわいらしい存在であったはずだ。そして、母を求め、乳房を求め、抱っこを求める存在であったのだ。
と、このように書くと、きっとほとんどの人が納得してくれるだろう。だが、そんな当たり前の話をしたいわけではない。上の記述の「当たり前」が通用しない場合というのもあるのだ。どこが「当たり前」なのか。そこが大きな問題となる。もう少しさかのぼって、話を進めていきたいと思う。
思春期に入ると、人間は性と向き合うことになる。男女共に、性に目覚め、異性を意識するようになる。学生たちに聞くと、いわゆる「初恋」は、もっぱら小・中学生の頃に起こるようであり、早い子で幼稚園児の頃に、初恋をしている。また、まれに「まだ恋をしたことがない」という学生もいるが、異性を全く意識していないわけでもなさそうだ。いずれにせよ、人間は、大人になる過程において、特定の異性を意識し、恋するこころが生まれ、性と向き合うことになる。
Die Ärzteというドイツの人気ロックバンドの大ヒット曲に、「Männer sind Schweine」という歌がある。その歌詞が実に面白く男性の特徴を言い表している。男は女に近づき、そして、うまいことを言ってくる。そして、夜がやってくる。男は女の服を脱がそうとし、ベッドに押し倒そうとする。そういうときのために、「警告の言葉」を意識しておけ、という歌詞である。そして、その「警告の言葉」とは、そのタイトル通り、「男たちは豚である」、というものであった。サビの部分を読むと、この歌詞が父から娘への歌だということが分かる。そして、「男たちを信じてはならぬ」と警告する。「残念ながら、例外はいない」とまで言い切る。90年代末に大人気となった曲だが、そこに男と性の問題を冷静に描写するがゆえのユニークさがあった。
この歌詞を逆に取れば、多くの女性が男の口に騙され、遊ばれ、性的関係をもってしまう、とも言えるだろう。騙す、騙されるだけなら、それはとりわけ性だけの問題ではないし、また男性だけでなく、女性も男を騙すこともあり得る-整形や化粧も男を騙す手段だとも言えなくもない-。だが、性的関係に限っては、常に妊娠のリスクを伴う、という点において、男女は対等ではない。性的行為は、常に「妊娠」という問題と直結しており、豚である男性と異なり、女性は常にその可能性と隣り合わせになっている。たとえ避妊具を使用していたとしても、100%妊娠が防げるというものでもない。
この「妊娠」においても、またわれわれは素朴なイメージをもっている。妊娠というと、皆口をそろえて「おめでとう」と言う。「妊娠した」ということは、子どもを出産するということに直結する。子どもを出産するということは、同時にその相手と婚姻関係になる、ということも同時に意味する。欧州では、いわゆる「事実婚」や「シングルマザー」も珍しくないが、日本においては、まだそこまで事実婚やシングルマザーは多くはない。素朴な先入観に基づけば、妊娠という言葉は、出産と結婚という幸福な概念とセットとなる。「でき婚」という言葉もある。今日では、結婚して、妊娠して、出産というプロセスの他、妊娠して、出産して、結婚するというプロセスを歩む夫婦も多い。この両者には質的な違いがある。結婚して妊娠する場合は、結婚後、子どもが欲しくて性的行為を行う。だが、でき婚の場合には、子作りとは別の目的で性的行為を行い、避妊に失敗して(あるいは何も考えておらず)、妊娠してしまい、それゆえに結婚することになる。結婚していない女性に、「私、妊娠したわ」と言われた時と、結婚している女性に、そう言われた時とでは、われわれのリアクションも異なってくるだろう。
つまり、妊娠には、「望まれる妊娠」と「望まれない妊娠」の二つがある、ということである。望まれる妊娠は、妊娠が望まれる形で妊娠することであり、望まれない妊娠とは、まさに「想定範囲外」であり、妊娠されると困ってしまうような妊娠である。これは全世界共通であり、この世の妊娠には、この両者しかないのである。そのいずれかなのである。多くの人は、「望まれる妊娠」を希望するだろう。だが、そうした妊娠になるかどうかは、当の本人次第だ、としか言いようがない。と、このように書くと、ほとんどの女性が、「私は、望まれる妊娠がいいわ」、と思うだろう。そして、望まれる赤ちゃんを出産したい、と願うだろう。誰も、望まれない妊娠などしたくはないはずである。
だが、その望まれない妊娠に悩み、苦しむ女性の数は決して少なくない。望まれない妊娠をしてしまった女性は、激しい葛藤を引き起こすことになる。「産むか、それとも中絶するか」、と。
かつての日本が中絶大国だったということは意外と知られていない事実かもしれない。あのマザー・テレサも、かつて日本の中絶数の多さに驚いて帰国した、という話もあるほどで、日本は世界的にも中絶数が突出して多かったのである。それは、誰もが容易に(世界的にはリーズナブルに)中絶することができ、またそれを禁止する宗教的教義や法的規制がない、という背景もあってのことだったかもしれない。だが、事実として、日本人は中絶という選択肢をもっており、多くの女性がそれを選択してきたのである。かつては100万ともされた中絶だが、2000年以後は、毎年20万~30万件ほどである。だが、それでも、その数は決して少なくはない。自殺者が3万人、社会的養護を必要としている子どもの数が4万~5万人であり、それに比べるとはるかに多いことが分かろう-ちなみに生活保護受給者数は200万を超えている!-。
→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120301-00000081-jij-pol
中絶しなくとも、流産してしまうことも多々ある。約10ヵ月間、母胎で赤ちゃんが生存し続けるということ自体もまた、一つの奇跡なのである。10か月、母胎に留まった胎児だけが、出産へと向かうことができるのである。だが、その10か月という期間の中で、赤ちゃんの出産を待望する女性もいれば、徐々に追いつめられていく女性もいる。このことをまず確認しておきたい。
<つづく>