Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

公共性と利他性(メモ)

メモです。

今、学校は、

①経済界からの攻撃(新自由主義)、
②家庭からの攻撃(モンスターペアレント)、
③国からの抑圧(新保守主義・官僚主導化)

に苦しんで、悲鳴を上げている。

そうした攻撃によって失われたのが、学校の自律性、教師の自律性、生徒の自律性、それから教師同士の連帯、教師と生徒の連帯、教育の自由さなどだ。つまりは、学校空間の独自性や自律性である。

今日の学校は、社会、家庭、国家の監視体制の中にいる。学校にはもはや自律性(あるいは独自のあり方)はなく、その時代の世論に流されることになった(英語の導入など)。ただ、まわりにふりまわされ、外部にやりたいようにやられるままなのが今の学校だ。教師もそれに疲れ、精神的に病み、休職する人も増えるばかりだ。学校は自信をなくし、様々な干渉や強制や抑圧に苦しみ、何をどうしてよいのか分からなくなっている。

今、最も奪われているのが、「公共性」だ。というか、公共性の危機が叫ばれている。公共空間の危機だ。学校は、「みんなのために」という大義のもとで、営まれる教育施設である。特定の誰かのためにあるわけではなく、子どもみんなのため、あるいは、将来の大人たち全員のために教育活動が行われているのである。広い意味では、将来のわれわれの国や社会のためではあるが、国家や企業のために教育活動が行われているわけではない。だが、現実の学校は、国家や企業の要望に応える請負会社みたいな場所に貶められていて、「みんなのため」という大義を見失ってしまっているのだ。格差社会を助長し、勝ち組と負け組を選別し、エリート予備軍には称賛を与え、ニート予備軍には正しく管理されることを調教する。これを批判するために、公共性という概念を取り上げる教育学者は実に多い。

僕は、公共性を第一の原理とは考えていないので、それほど公共性にこだわりもなければ、愛着もないが、それを可能にする条件はきちんと問いただしたい。

それを、僕は、「利他性」という言葉で叫びたい。公共性が成立するための条件は何か。それを可能にするのは、利他的な人間に、愛され、認められ、誉められ、見つめられ、ケアされ、抱きしめられることである。これなくして、公共性は実現し得ない。なので、僕は利他性から学校教育を考えたいのだ。自分と違う他者と共に同じ空間で共に存在し合い、問題を共有し、語り合う、という公共空間は、利他性のない人間には実現し得ないのだ!!!!

・・・とはいえ、今流行りの「ケアする学校」という考え方にも反対なんだけども。。。その辺はまた後ほど。。。

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