いわゆる「孤児」の救済に己の一生を懸け、「岡山孤児院」という民間施設を創設した石井十次は、1887年、とある女性と出会っている。その女性は、「二人の子を連れた女性遍路」(p.22)だった。
当時、十次は甲種岡山県医学校(岡山大学医学部の前身)の学生だった。彼は、その1887年、とある出張診療所の代診を頼まれ、「医学の実地研究」を行っていた(同)。
4月20日、十次は、その診療所で、この女性遍路と出会う。8歳の兄と5歳の妹をもつ母だった。その彼女は次のように十次に言ったという。
「備後地方(広島県東部)の出身です。借金で故郷にいられなくなり、夫と三人の子どもで四国遍路に出ました。流浪の果て、夫と姉娘は小豆島で熱病にかかって死にました。仕方なく物乞いをしながら、故郷をを目指しています」、「子ども一人なら人に雇われて洗濯などをしても暮らしてゆけますが、二人だと嫌って雇ってもらえません。妹は生まれつき足が不自由なので難しいでしょうから、兄のほうを預かっていただけないでしょうか」(p.23)。
この時に預かった8歳の兄こそ、後の岡山孤児院となる施設の「収容児第一号」であり、前原定一という名の男児だった。
石井十次は、一般に孤児の父、児童福祉の父、岡山孤児院の創始者として知られているが、上の話を踏まえると、単に孤児を救済しようと思ったというのではなく、母子の救済、もっといえば「緊急下の女性」を助けるべく、男児を預かっている。この母は、いわゆる寡婦であり、職がなく、生活する資金すらなく、途方に暮れている状態の女性だった。「兄の方を預かっていただけないでしょうか」という母の懇願は、どれほど悲痛だっただろうか。
もう100年以上前の小さな話であるが、ここに「緊急下の女性(Frauen in Not)」の根本的な問題、ないしは母子救済・母子支援の根本的な問題、さらには「赤ちゃんポスト」の問題が潜んでいるように思う、というと大げさだろうか。子どもの問題、幼児の問題は常に親の問題と連動している。
あてのない女性、子どもをもはや育てられない女性、夫を亡くした女性、物乞い、つまりは失業者である女性、そうした女性が、助けを求めて、出張診療所を訪問した、という事実。この事実は、決して、過去の昔話として聞き流すことはできないだろう。今日もなお、同じように、いやかつてよりもより複雑に様々な問題が絡み合うかたちで、こうした事実にわれわれは直面しているのではないか。
十次が執筆した「孤児教育会趣旨書」の中で、彼は、「この世で最も哀れむべきは貧困により父母の手を離れた孤児で、それを救って教育することがすなわち国家のためである」ということを訴えた(p.25)。このように、「父母の手を離れた孤児」を救い、教育することが十次にとっての最大の課題であった。だが、それ以前に、父母が置かれた厳しい状況こそが、そうした課題の根源があるのである。
今日では、貧困のみならず、虐待、夫婦の不和、別居、離婚、ネグレクト、薬物、疾患等、様々な理由で、多くの子どもが父母から引き離されている。これを一義的に、「貧困問題」に還元することはできない。現代の親子問題は、かつてほど単純ではない。十次の時代には、「孤児院」が必要とされたし、それでカバーできる部分は多々あった。だが、それから100年以上経った今、当時の考え方で対応できるほど、事態は単純ではない。現代社会に十次が存在していたとしたら、彼はどうするだろうか。
今日においても、上に挙げた女性遍路のような女性はたしかに存在する。そうした女性の声から、われわれは何をどうすればよいのかを考えなければならない。彼女たちが望むこと、彼女たちが求めることに、もっと耳を傾け、その望みや要望に応えていく責任がある。
その望み、要望の一つが、匿名の支援だとすれば、匿名性は守られねばならないし、また、実名での支援を求めているなら、実名性がはっきりとされなければならない。大切なことは、そうした支援を求める当の女性たちの声を尊重することであろう。
ただ、一つ言えることは、本当に緊急下の状況に置かれた女性たちは、どこにも相談していない、という事実である。相談しないどころか、問題を隠している、ないしは問題を直視していない。いや、言葉にできずに、ただ苦しんでいるだけかもしれない。ゆえに、そうした女性たちの望みや要望をきちんと把握することが、今、最も求められていることではないだろうか。