僕にとって、12回目の卒業式が終わった。
毎年毎年、卒業式が嫌で嫌でしょうがなかった。
自分が思い描く理想(?)の卒業式の風景と現実があまりにも違い過ぎるからだ。
理想はこの曲の中にある(苦笑)
いい曲。
綺麗な曲。
…
でも、現実はそんなんじゃない。
自分はただの「アクセサリー」でしかない、
自分は特に慕われるような先生でもない、
あれこれ実用的な世話をやくわけではないので、感謝されることもない、
どれだけ本業を頑張っても、感謝されるどころか、スルーされるだけ、
…
自分の力のなさを、殴られるように、思い知らさせるきつくて辛い「儀式」になる。
一応、「教育学」や「福祉学」の専門なので、「主流」なはずなのに、メインになれない悲しさ。
「公開処刑」されるような気分にしかならない。
この12年間、ずっとこの「卒業式」は重くて、苦しいもので、僕を悩ませてきた。
時折、「悪夢」となって、真夜中に僕を襲うこともあった。
***
でも、今回の卒業式で、一つ、気づいたことがあった。
気づいたというか、再発見というか…。
それは、一部の学生にとって、僕も間違いなく「かけがえのない先生」になっているということ。
学生時代を楽しく、充実して、生き生きと学んできた学生に、ではなく、
辛く、苦しく、追いつめられながらも、なんとか卒業していくような学生たちににとって。
学内で上手に「適応」して、「順応」して、卒なくやっていく学生、ではなく、
学内でうまく適応できず、順応できず、居場所もなく、孤独な学生たちにとって。
今回は、特にそういう学生が多くて、それに気づくきっかけとなったように思う。
「みんなに人気のいい先生」にはなれなくても、
「一部の、僕みたいな人間が必要な学生たちにとってのいい先生」にはなれるんだ、と。
うまく、上手に生きられる学生は、他の先生たちに任せればいい。
僕は、そうじゃない学生たちのために、存在していればいいんだ、って。
12年目が終わる今になって、素直にそう思えた自分がいる。
結局、、、
僕は、どこであっても、そういう風にしか生きられないんだなぁ、というか、
結局、僕は、根から、福祉的な人間なんだなぁ、と思った。
教師的な人間でもないし、教育的な人間でもない。
福祉的な人間としか、言いようがない。
ほとんどの学生には、スルーされ、相手にもされないダメ教師だけど、
他の先生では対応できないような学生たちには、必要な存在なんだな、と。
まぁ、面倒くさい学生ばかりだけど…(;^ω^)
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12年、教員をやってきて、自分の役割というか、責任の所在みたいなものを学んだ気がした。
ある(毒のある)学生が言ってくれた言葉が忘れられない。
「私はずっと<先生>という存在が嫌いでした。<学校>という場所も嫌いでした。今も、<先生>も<学校>も大嫌いです。でも、kei先生だけは、別でした。初めて、<先生>が好きに思えました」
この言葉は、ホント、12年間の苦しい日々が報われるような言葉だった。
一つだけ、自負がある。
僕を<先生>として承認してくれる学生たちは、みんな、僕に「敬語」「丁寧語」で話してくれる。
つまり、ちゃんと「目上の存在」として、僕と接してくれている。
今や、高等教育であっても、「先生、~だよねー」といったタメ口で話す学生は多い。
でも、そこの部分をしっかりわきまえた学生だけが、僕に近づいてきてくれる。
そういう意味では、福祉的な人間だけど、ちゃんと「教師」としても存在できているのかな、と思う。
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原点回帰。
12年という一つのサイクルが終わった。
自分には、何ができて、何ができないのかも、分かってきた。
できないことを無理にするのではなく、できることをきちっとやろう、と。
多くはないけど、数少ない学生たちにとっての<先生>になれれば、OK、と。
そういう意味では、今年度の卒業式は、学ぶことが多かった。
数少ない<僕>の卒業生たちの幸せを願っている。
・・・
また、数週間後には、新学期が始まる。
13年目はどんな1年になるんだろうな…
ま、きっと、例年通り、バタバタ、ドタバタで終わるんだろうけど…
誰かにとっての<かけがえのない先生>になれたら、これ幸いなり。