僕はこれまでずっと「ママ」(あるいはママ的存在)という存在が赤ちゃんにとって欠かせないと思っていたし、今もそう思っている。もちろん「ママ」がいなくても、赤ちゃんは育っていくものだが、根源的な愛情の不足という大きな負の遺産を残すことになる可能性は高い。「ママ」ではなく、「パパ」であってもそれは変わらないが、過ごす時間や専心する態度において、「ママ」の方が「パパ」よりも、赤ちゃんにとってより重要な存在となるだろう。
だが、それ以上に、それ以前にもっと大切なことに気付いた。
昨日から今日にかけて、5歳の甥っ子と生後10ヶ月の姪っ子が我が家にやってきた。僕は主にベビーシッターとして、ずっとその姪っ子あやちゃんのお世話をしていた。
今日の午後、あやちゃんはお母さんと甥っ子と一緒に別の場所に移動しなければならず、お母さんはあわただしく出発の準備に追われていた。その間、僕はずっとあやちゃんの面倒を見ていた。抱っこしたり、歌を歌ったり、勝手に話しかけたり、奇声をあげたり、目をグルグルさせたりして、楽しい一時を過ごしていた。お母さんの姿が見えなくても、十分僕と一緒にいることができていた。(抱っこは惜しみなくやる方なので、あやちゃんは大満足。赤ちゃんは抱っこが大好き。でもどうして?)
そんな楽しい時間を過ごしていたが、突然の玄関のチャイムがなり、その楽しい時間に亀裂が入ることになる。来たのは宅配便の配達業者さんだった。
あやちゃんを抱いたまま、玄関のドアを開けて、その宅配便を受け取った。あやちゃんに、「ほら、おじちゃんが来たよ」と声をかけると、「キャッキャ」と声を上げて笑った。業者さんも、笑顔で対応してくれた。
で、またあやちゃんを抱いて、ダイニングに行き、テーブルに腰かけた。あやちゃんを少しあやした後、届いた宅配便を開いた。家の見積書だった。僕にとってとても興味のあるものだったので、(あやちゃんはしっかりと抱いたまま)しばしその見積書を見入ってしまった。お金の話だけに、僕も真剣に読んでいた。
すると・・・
突然、あやちゃんの様子が変わり始めた。あやちゃんは、「あっ、あっ」と言いながら、テーブルの上にあったティッシュペーパーを手に取り、それをテーブルの下に投げ捨てた。そして、徐々に声を荒げて、「うわ~ん、うわ~ん」と声を上げて、泣き始めた。身体をそらして、僕の抱っこを拒絶し始めた。この突然の出来事に、最初、僕はママが恋しくなったのかと思った。
一度泣き出したあやちゃん。もう「時既に遅し」で、僕がどれだけあやしても、何をやっても、泣き止んでくれない。高い高いをしてもダメ。髪を撫でてもダメ。変な言葉をかけもダメ。何をやってもダメだった。(ここでうちの学生なら、「自分の無力さを感じた」と書くんだろうけど、(ここから)僕はちょっと違うぞ~)
その時に僕がふと思いついて、考えたのが、以下の二つ。
①突然あやちゃんが泣き出したのは、ママが恋しくなったからであり、ママのところに行きたい! keiじゃダメ!っていう意味で、泣き出した。
or
②突然あやちゃんが泣き出したのは、ママが恋しくなったのではなく、(今あやちゃんにとって一番身近にいる)僕が、今までずっとあやちゃんのことを見ていたのに、突然宅配便が届いて、僕の「気」があやちゃんから、その宅配便に移ってしまったから。
という二つの問いであった。どっちなんだろう?
というわけで、すぐにママのところに連れていった。が、あやちゃんは全然泣き止まないし、何気にしっかり僕のTシャツをつかんでいる。①の説が妖しくなってきた。
そこで、今度は、ママが見えない隣りの部屋に移って(赤ちゃんの環境を変えて)、その部屋の扉を閉めて、しっかり僕があやちゃんに向き合う、ということをしてみた。
もしあやちゃんが①の理由で泣き始めたのだったら、そんなことをしても泣き止まないはず。逆に、ママの姿が完全に見えなくなるので、余計に泣き声が大きくなるはずである。
その隣の部屋で、僕はじっとあやちゃんを見つめて、笑顔を作ってみた。あやちゃんは、環境が変わったせいか、ちょっと静かになった。そして、僕の顔を見つめて、「はぅ~」というかわいい声を上げた。抱っこするのをやめて、その部屋のベッドに座らせた。ベッドの上には、やわらかいゴムのボールがあって、それをじっと見た。すっかり泣き止んでいる。で、あやちゃんの目の前に手をかざして、「いないいない・・・・ ばぁ~」とやると、あやちゃんはキャッキャと声を上げて笑った。
一度機嫌がよくなったあやちゃんは、天使の笑顔を見せてくれた。先ほどまで嵐のような叫び声を発してたあやちゃんだが、環境を変えて、しっかり僕があやちゃんに意識を向けると、それに満足してくれたのか、あやちゃんはすっかり上機嫌になってくれた。
②が正しかったのだ。
赤ちゃんにとって、母親の存在は絶対である。だけれど、その「母親=絶対」というのも、あまり強く持ちすぎるとよくない。それよりも、そばに居るのが誰であれ、赤ちゃんのことをしっかり見ていてあげる人がいない、ということの方が問題となることもあるのだ。
僕は、宅配便の出現により、「あやちゃん」から「宅配便」に関心が移った。それまでずっと赤ちゃんに目を向けていた僕が、突然、別のものに「気」を取られてしまった。その結果、あやちゃんからしてみれば、ずっと自分を見てくれる人が突然自分を見てくれなくなった、気にかけてくれなくなった、という現象が生じたのである。
あやちゃんは、生後10ヶ月ながらに、その異変に気付き、身体を張って必死に泣いた。泣くことで、「kei、ちゃんと私をみて! 見ててくれないとダメなの!」と訴えているようにも聴こえてきた。僕は、(ママが忙しい今)あやちゃんのことを見ていてくれる唯一の存在だったのだ。その僕が別のものに気を取られるということは、この世の中であやちゃんのことを実際に気にかけてくれる人が一人もこの世にいない、ということを意味する。それは、今のあやちゃんにとっては、ママがいないことよりもより辛いことなのであったし、耐え難いことなのであった。
「気を向ける」ということは、あまりに主観的なことなので、保育学や養護論であまり問題にされることはないが、やはり現事実として、「気を向ける」という主観的な私の能作が、赤ちゃんにとっては非常に重要なのだと思う。
あやちゃんは、確かに、僕の「気を向けない」という能作に敏感に気付いていた。
大人以上に相互主観性を生きる赤ちゃんにとって、「自分以外のものに気を取られること」は、見破るのがとても簡単なことなのかもしれない。逆に、赤ちゃんを育てる者は、いとも簡単に、「自分の注意の矛先が変わること」を赤ちゃんに簡単に見破られてしまうのである。
赤ちゃんは何もできない存在ではない! 逆に僕らの移り気をすぐに正しく見破ることができるのである。
恐るべし、あやちゃん!