Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

【赤ちゃん論】 「ママがいないこと」と「見ていてくれないこと」


僕はこれまでずっと「ママ」(あるいはママ的存在)という存在が赤ちゃんにとって欠かせないと思っていたし、今もそう思っている。もちろん「ママ」がいなくても、赤ちゃんは育っていくものだが、根源的な愛情の不足という大きな負の遺産を残すことになる可能性は高い。「ママ」ではなく、「パパ」であってもそれは変わらないが、過ごす時間や専心する態度において、「ママ」の方が「パパ」よりも、赤ちゃんにとってより重要な存在となるだろう。

だが、それ以上に、それ以前にもっと大切なことに気付いた。


昨日から今日にかけて、5歳の甥っ子と生後10ヶ月の姪っ子が我が家にやってきた。僕は主にベビーシッターとして、ずっとその姪っ子あやちゃんのお世話をしていた。

今日の午後、あやちゃんはお母さんと甥っ子と一緒に別の場所に移動しなければならず、お母さんはあわただしく出発の準備に追われていた。その間、僕はずっとあやちゃんの面倒を見ていた。抱っこしたり、歌を歌ったり、勝手に話しかけたり、奇声をあげたり、目をグルグルさせたりして、楽しい一時を過ごしていた。お母さんの姿が見えなくても、十分僕と一緒にいることができていた。(抱っこは惜しみなくやる方なので、あやちゃんは大満足。赤ちゃんは抱っこが大好き。でもどうして?)

そんな楽しい時間を過ごしていたが、突然の玄関のチャイムがなり、その楽しい時間に亀裂が入ることになる。来たのは宅配便の配達業者さんだった。

あやちゃんを抱いたまま、玄関のドアを開けて、その宅配便を受け取った。あやちゃんに、「ほら、おじちゃんが来たよ」と声をかけると、「キャッキャ」と声を上げて笑った。業者さんも、笑顔で対応してくれた。

で、またあやちゃんを抱いて、ダイニングに行き、テーブルに腰かけた。あやちゃんを少しあやした後、届いた宅配便を開いた。家の見積書だった。僕にとってとても興味のあるものだったので、(あやちゃんはしっかりと抱いたまま)しばしその見積書を見入ってしまった。お金の話だけに、僕も真剣に読んでいた。

すると・・・

突然、あやちゃんの様子が変わり始めた。あやちゃんは、「あっ、あっ」と言いながら、テーブルの上にあったティッシュペーパーを手に取り、それをテーブルの下に投げ捨てた。そして、徐々に声を荒げて、「うわ~ん、うわ~ん」と声を上げて、泣き始めた。身体をそらして、僕の抱っこを拒絶し始めた。この突然の出来事に、最初、僕はママが恋しくなったのかと思った。

一度泣き出したあやちゃん。もう「時既に遅し」で、僕がどれだけあやしても、何をやっても、泣き止んでくれない。高い高いをしてもダメ。髪を撫でてもダメ。変な言葉をかけもダメ。何をやってもダメだった。(ここでうちの学生なら、「自分の無力さを感じた」と書くんだろうけど、(ここから)僕はちょっと違うぞ~)

その時に僕がふと思いついて、考えたのが、以下の二つ。

①突然あやちゃんが泣き出したのは、ママが恋しくなったからであり、ママのところに行きたい! keiじゃダメ!っていう意味で、泣き出した。

or

②突然あやちゃんが泣き出したのは、ママが恋しくなったのではなく、(今あやちゃんにとって一番身近にいる)僕が、今までずっとあやちゃんのことを見ていたのに、突然宅配便が届いて、僕の「気」があやちゃんから、その宅配便に移ってしまったから。

という二つの問いであった。どっちなんだろう?

というわけで、すぐにママのところに連れていった。が、あやちゃんは全然泣き止まないし、何気にしっかり僕のTシャツをつかんでいる。①の説が妖しくなってきた。

そこで、今度は、ママが見えない隣りの部屋に移って(赤ちゃんの環境を変えて)、その部屋の扉を閉めて、しっかり僕があやちゃんに向き合う、ということをしてみた。

もしあやちゃんが①の理由で泣き始めたのだったら、そんなことをしても泣き止まないはず。逆に、ママの姿が完全に見えなくなるので、余計に泣き声が大きくなるはずである。

その隣の部屋で、僕はじっとあやちゃんを見つめて、笑顔を作ってみた。あやちゃんは、環境が変わったせいか、ちょっと静かになった。そして、僕の顔を見つめて、「はぅ~」というかわいい声を上げた。抱っこするのをやめて、その部屋のベッドに座らせた。ベッドの上には、やわらかいゴムのボールがあって、それをじっと見た。すっかり泣き止んでいる。で、あやちゃんの目の前に手をかざして、「いないいない・・・・ ばぁ~」とやると、あやちゃんはキャッキャと声を上げて笑った。

一度機嫌がよくなったあやちゃんは、天使の笑顔を見せてくれた。先ほどまで嵐のような叫び声を発してたあやちゃんだが、環境を変えて、しっかり僕があやちゃんに意識を向けると、それに満足してくれたのか、あやちゃんはすっかり上機嫌になってくれた。

②が正しかったのだ。


赤ちゃんにとって、母親の存在は絶対である。だけれど、その「母親=絶対」というのも、あまり強く持ちすぎるとよくない。それよりも、そばに居るのが誰であれ、赤ちゃんのことをしっかり見ていてあげる人がいない、ということの方が問題となることもあるのだ。

僕は、宅配便の出現により、「あやちゃん」から「宅配便」に関心が移った。それまでずっと赤ちゃんに目を向けていた僕が、突然、別のものに「気」を取られてしまった。その結果、あやちゃんからしてみれば、ずっと自分を見てくれる人が突然自分を見てくれなくなった、気にかけてくれなくなった、という現象が生じたのである。

あやちゃんは、生後10ヶ月ながらに、その異変に気付き、身体を張って必死に泣いた。泣くことで、「kei、ちゃんと私をみて! 見ててくれないとダメなの!」と訴えているようにも聴こえてきた。僕は、(ママが忙しい今)あやちゃんのことを見ていてくれる唯一の存在だったのだ。その僕が別のものに気を取られるということは、この世の中であやちゃんのことを実際に気にかけてくれる人が一人もこの世にいない、ということを意味する。それは、今のあやちゃんにとっては、ママがいないことよりもより辛いことなのであったし、耐え難いことなのであった。

「気を向ける」ということは、あまりに主観的なことなので、保育学や養護論であまり問題にされることはないが、やはり現事実として、「気を向ける」という主観的な私の能作が、赤ちゃんにとっては非常に重要なのだと思う。

あやちゃんは、確かに、僕の「気を向けない」という能作に敏感に気付いていた

大人以上に相互主観性を生きる赤ちゃんにとって、「自分以外のものに気を取られること」は、見破るのがとても簡単なことなのかもしれない。逆に、赤ちゃんを育てる者は、いとも簡単に、「自分の注意の矛先が変わること」を赤ちゃんに簡単に見破られてしまうのである。

赤ちゃんは何もできない存在ではない! 逆に僕らの移り気をすぐに正しく見破ることができるのである。

恐るべし、あやちゃん!

コメント一覧

kei
yukisukeさん

なかなか議論も深まってきました(笑)

共感できない事柄をどうやって理解するか。

共感できない部分は知性(知識)で補うしかないんですが、知性や知識で理解するのはちょっと寂しい。共感できない部分を、知性ではない形で理解する方法はあるのか? 

そういう問いになってきたように思います。

「イメージのメタモルフォーゼ」ってすごくいい表現だと思いました。何もないところからイメージする事はできないけれど、今自分にできるイメージを変形させていくことならできます。そのためにも、やはり自分のイメージをしっかりと明確に知る(認識する)必要があるのかな、と。(福祉では「自己覚知」とか言ったりしますが)

とりわけ「孤独」や「不安」や「寂しさ」といった心理的な事柄については、安易に共感しやすいので注意が必要ですよね。

そこで、僕がヨーロッパで学んだことは、その人の孤独や不安や寂しさをどのように表現させるか、という表現の問題として語ることです。

今の日本人の感覚だと、孤独や不安は押し殺すもの、心の内に潜めておくもの、と考えがちです。が、孤独や不安こそ、もっともっとおおっぴろげに外に出してもいいのかな、と。

それがこれからの援助のあり方かな、と思ったりする今日この頃です。いかがでしょう?!
yukisuke
Guten Abend!
kei氏!

知っているものを使って、知らないもの
をしる。

それは、身をもって体験する事であり、ある程度の持続的にかつ具体的にする事でしょうか。


以前TVで高齢者の世界を知るという企画で、体の各所に、重りをつけ、軍手をつけて、曇りめがねを掛けて、、。とういうのがありました。


頭の中では、分かっているんです。イメージをしてもある程度のことも想像できる。


??書いていて思ったのですが、身体的な事はできますが、寂しさ、孤独などの感情はどうしればよいのでしょう、、。

やはり、自分の持っている感情や引き出しをつかって、必死に具体化していかないといけないですよね。


イメージのメタモルフォーゼ。


いつもコメントを返していただき、ありがとうございました!

kei
GUTEN TAG!

想像力って、つきつめれば、やっぱりイメージトレーニングとか、思考実験とか、そういう感じで鍛えていくしかないんでしょうね。

普段からイメージしてないと、いざというときに何かをイメージすることってできないでしょうから。

でも、イメージするって何をすることなんでしょうね?! すでに知っていることをイメージするのであれば、それは共感と変わんなくなってきちゃう。

ただ、すでに知っていることを使わない限り、何かをイメージすることはできないですし、すでに知っていることをはずして、イメージしても、何にも浮かばないはずです。

とすると、すでに知っていることを素材にして、いかに「変形」、「メタモルフォーゼ」、「デフォルメ」するか、っていうことがイメージトレーニングなんでしょうかね。

あるいは、すでに知っている事柄から出発して、知らない世界へと向かう練習というか。

なんだか、書いていて、ピンきません(汗)

ただ、保育にせよ、福祉にせよ、自分とは異なる存在である他者のことを共感し、そして、自分ではイメージし得ない部分を常に意識しながら、いろいろとその人について思い巡らす、っていうのはなんか大事なことのように思います。

なんか、いいヒントを得たような気がします。ありがとうございます。いつも!
yukisuke
http://be-blown-off-neworld.269g.net/
こんばんは!Kei氏

返信ありがとうございます。

>想像力は、共感する力ではない気がするんです。

想像力=今、自分に無い事柄

共感性=今、自分にある事柄


>想像力は未来に向かう力であり、共感力は過去(記憶)に向かう力のような気がします。

夢=想像力の表れ
思い出=共感性の表れ
ですね。


私は想像力は乏しいですね、なので、私が描く絵はとても単色になります(笑)

ただのものぐさかもしれませんが。


想像力の始まりは、夢からですね。
イメージトレーニングとかそのような感覚も必要かと思います。

想像力を鍛えるには、思考の具体化なのかと思っています。


コメント、ありがとうございます!Kei氏!

kei
yukisukeさん

「共感性」、「想像力」、たしかにそういわれると、「そうですね」と言うしかないって感じです。反論したいとかじゃなくて、ま、そんなところかな?!という感じです。

現場の人は、行為するプロではあるけれど、語るとなると、どうしても一般的な解答しか語れないような気がするんです。(実践者は行為において本領を発揮するのだから、それは否定すべきことではありませんよ!!!)

「相手の置かれた立場を想像する」は、そのまま「共感」ということになるのでしょう。けれど、僕はこの共感が嫌で嫌でしょうがないんです。共感されてもちっとも嬉しくないですから。誰かの悲しい話に涙して聴く人を見ると、すごいなぁと思う反面、何を分かって泣いているんだ?!とひねくれてしまいます。

想像力は、共感する力ではない気がするんです。自分の経験を越え出たものを捉える力というか、自分の知らない世界を描く力というか、そういう力のような気がします。共感力は、自分が既に知っている事柄で新たな事柄を理解することなのでは?! 

想像力は未来に向かう力であり、共感力は過去(記憶)に向かう力のような気がします。いかがでしょう?!

僕自身は、想像力がない人間だと思っています。というか、自分の想像力に対して信頼していないっていうか。

自分の描く想像がいかに乏しいかってことはよく知っているつもりです。本当に。。。

よく人に「オマエは人の立場を考えていない」といわれますからね(苦笑)

僕的には、あえて相手の立場を考えないようにしている部分もあります。もちろん誠意ある対応はしているつもりですが、あんまり相手のことをあれこれと考えることをしないように心がけています。簡単なエポケーですね(笑)

yukisukeさんはどうですか?? 想像力についてどう考えていますか??
yukisuke
こんばんは!
先日、会社の上司にこの質問をぶつけて見ました。

「保育者の資質で大事なのは?」と。

最初は「共感性」とお話していました、そこで
感受性の詳細を聞いてみたのです。

突き詰めてみれば、それはやはり、「想像力」との答えが出ました。

なにはともあれ、まず相手の置かれた立場を想像してみなさい。と。


kei氏は想像力豊かな人ですか?
kei
yukisukeさん

Guten Abend!
Wie geht es Ihnen?!?!

またまた内容のあるコメントを、ありがとうございます!

「リハーサル」=「思考実験」って感じですかね??

リハーサルっていう言葉が気に入りました♪

>仮説を立てて、答えを予想して、実際に確かめる

この考え方には同感です。

ある程度、何か行動をするまえに、ある程度の予測というか仮定がないと、それがどんな事態なのかを解釈することができません。

実践をよりよく理解するためにも、ある程度の先入観と、学問的知識が必要となります。

何の知識も先入観もなく、実践を行うって、とても恐いことですよね。「起こった出来事に、素朴な先入観で、感情が動いてしまう」っていうか。。

先入観を防ぐためにも、先入観を鍛える。そして、素朴な先入観と共に、学問的先入観ももっておく。そして、実践によって、さらにその先入観をブラッシュアップさせる・・・

そんな感じですかね?!

yukisuke
http://be-blown-off-neworld.269g.net/
Guten Tag!

最近、天気の移り変わりが激しくて、どこに行くか迷っているyukisukeです。

>先入観や偏見によってねじまげられた「些細なこと」を、「意味のあること」として受け取る感覚的な能力が感受性なのかな、と思うんです

まずは、先入観を捨てないと。ですね。
それは非常に疲れる世界になりますが。ある程度の専門知識を得れば、グッと的が絞れるのではと思います。

>「意味のあること」と「はっと気付く感覚」は、どのようにしたら、ぴたっと一致するのか?!

この事は、まずは対象者の見ている「世界」に着目しないといけません。
yukisukeは基本的な(障害特性に応じた知識)
事を勉強して、実際に何度も自分自身にリハーサルをしています。

例えば、このコメント欄を書くに当たって、カーソルが点滅していますよね。

上手く表現できないのですが「遠山を見る目付き」で画面全体を見ると、どうしても点滅のしているカーソルに注意が向いてしまうのが感じられると思います。

それをいろんな状況で試して、子供の疑似体験をしています。

実験心理学ですね。

まず仮説を立てて、答えを予想して、実際に確かめる。

それも子供によって幅が違うので、子供に応じて何度もやってみる。

今のyukisukeはそんな連続の毎日です。


やはり、知識ありき、実践ありきの世界だと思います。

併行してこそ分かる事ですね。まぁ、当たり前な話なのですが。
kei
yukisukeさん

Guten Tag!(oder Guten Abend?!)

感受性問題についてのコメントありがとうございます。

>小さい些細なことも見逃さずに

ここ、すごく僕も考えるところなんですよ。。

些細なことを見逃さないって、言葉だと大事だって(頭では)分かるんです。

けれど、感受性って、「些細なこと」なんだけど、「意味的に重要なこと」なんだと思うんですよね。

本当に些細なことなら、見逃してもいいような気もするんです。

先入観や偏見によってねじまげられた「些細なこと」を、「意味のあること」として受け取る感覚的な能力が感受性なのかな、と思うんです。

あらゆることに感じてしまったら、生きていけないし、疲れちゃう。

けれど、見落としてはいけないんだけど、見落としてしまいがちなところを、「はっ」と気が付くセンス、、、それが感受性なのかな?!

とすると、その「意味のあること」と「はっと気付く感覚」は、どのようにしたら、ぴたっと一致するのか?!

そこに問題の核心があるように思います。

分かっていただけるでしょうか?!

自分の感受性と、感知される事柄が一致するために必要なものは何か?!

些細なことにはっと気付く感覚と、その些細なことそのものとの一致。

感覚を磨けばそれで獲得できるような能力ではないようにも思うんですよね、、、

yukisuke
Wie empfindet guten Abend

忙しい中、夜中の一時にコメント、ありがとうございます。

>能動性よりも受動性を大切にしなければならないよな


なにを感じ、なにを必要としているのか?
常々、良く考えます。

言葉という道具がある、私たちはつい、この道具に頼りがちですよね。

言葉を使わずに、気持ちを伝えるには?
言葉を使わずに、気持ちを知るには?

そのために、良く子供たちの視線や行動を観察します。

感受性って、素直に物事を見れる事なのだろうと思います。

小さい些細なことも見逃さずに。


Kei氏はどのように考えますか?
kei
招き猫さん

コメントありがとうございます!
お返事遅れてすみません。忙殺されてました。

貴重なお話ありがとうございます。

やっぱり、赤ちゃんは、両親問わず、根本的に人に注目されることを、見てもらうことを求めているんですよね。

片手間じゃだめってことなんだと思います。

ただ、それは親でなくてもいい。

このことは、今の時代で、多くの人が忘れてしまっていることなんじゃないかな、と最近強く思います。

親としては、自分の子どもは自分しか育てられないと思い、頑張りすぎる。

他人としては、自分じゃその子の面倒を見切れない、、、

と。

それにアンチテーゼを唱えたいのかな、と僕は思っています。

子どもへの責任は、親のみにあらず。

子どもは、みんなで育てる。

そういう視点が今、本当に求められているように思います。

もちろん秋葉原の事件も想定してのことで。

なんか招き猫さんのコメントを読んで、自分がとらえたいところがはっきりしてきました。

ありがとうございます!!!
kei
みやっちさん

こんばんは。最近二郎系が恋しいkeiです。

仰るとおり、母親の存在はとても大きいと思います。けれど、母親以外の人でも、十分育児に入れる、というのもやはり「あり」なんじゃないかな、と思いました。みやっちさんも書いてくださっていますが、「母親だけに依存することはない」って、本当だと思います。

赤ちゃんって、意外と順応性高いのかな、と。親がいないとどうだとか、よく言われますけど、周囲に心のある大人がたくさんいれば、子どもはしっかり育つんだ、と、強く思います。今の社会にも、昔と変わらず、「母親が子どもを世話するんだ」という圧力がかかっていると思います。母親自身の中にも。

もっと色んな人に子育てをやってもらえたら、母親も追いつめられなくてすむのかな、と。

いろいろと考えさせられるコメントでした。ありがとうございます!!

*渋谷の油組、行かれたんですね!!
kei
yukisukeさん

こんばんは!(現在深夜1時!)

「アンテナを常に3本で!」

いい言葉ですね。確かに、素人じゃないんだから、周囲の状況がしっかり見えてなければならない。一般の人が一本のアンテナしかないとしたら、プロは3本は少なくとももってなければならない、たしかにそのとおりだと思いました。

障害児の子相手だったら、なおさらですよね。失敗は許されないし、大きな事故につながりかねない。三本以上のアンテナは絶対に必要だと思います。

三本かどうかはおいておいて、やっぱり「感受性」というか、「周囲の状況を察する力」って大事ですよね。

僕らは、能動性よりも受動性を大切にしなければならないよな~と感じる今日この頃です。

感受性について、yukisukeさんのご意見、聴いてみたいです。

Auf Wiedersehen!
招き猫
向き合うということ
先日とあるセミナーに行ってきました。
「指先で軽く相手の身体に触れるだけ」で
心身の癒しになるというものだったのでした。

これだけでPTSDの子供達や終末期のがん患者の痛みも軽減できるそうです。
実に簡単に誰にでも出来るセミナーでした。
(タッピングタッチといいます)

その中で、身体に触れるということが動物では日常的に行われていて
「人間はグルーミングをしないサル」
だというお話を聞きました。
犬もネコもその他の動物もみんなグルーミングしてますけど、これは争いをなくしたり心の平穏をもたらす行為なのだそうですよ。
もちろん、触れているだけではなく人間ではごく簡単な会話も必要だとセミナーでは言っていましたけど。

子供を抱っこしながら、または授乳をしながらテレビを見たり他の人と会話をしていたりすると
なかなか寝付いてくれなかったりミルクを飲んでくれなかったりします。
これは私が仕事中にいつも感じることですが
たとえ母親・父親でなくても、きちんとその子の顔を見て話しかけたりすると泣き止むし、途中で飲まなくなったミルクもきれいに飲んでくれます。

大人より子供(年齢が低ければより低い)のほうが
こういったアンテナは敏感に働くみたいですね。
乳児院や孤児院などで育っても、ちゃんと向き合って育てて貰った人はあまり間違いを起こさないような気がします。
逆に、両親が揃っていても構ってもらえないまま育った人は「構って欲しいために攻撃的になる」ような…

秋葉原の事件を起こした人もそうだったのかなって思いました。
みやっち
うちの娘も
http://www.miyach23.com/
誰も構ってくれないと、泣きますね。
ただ、何か行動は起こさずに、
ひたすら泣き、ふてくされます。
なので、子育てしていると、
経験則から(2)だとわかります。
これがまた、24時間続くとホント大変で。
母親ってホントに重労働なんだな、と。
最近は「忙しいと相手をしてくれない」
ということを覚えたらしく、
そういうときは無理を言わなくなってきましたが。

うちは、同居ということもあり、
常に母親がついているわけではないので、
母親だけに依存することはないですが、
ただ、母親の姿が長いこと見えないと、
ちょっと情緒不安定になりますね。
yukisuke
Wunderbar!
Guten Abend!

読んでいて、非常に面白く、現場に沿った記事でした!

障害児学童保育では、まさにそのような事が日常的に起こっていて、赤ちゃんではなく6~18歳までの児童になるので、時として問題行動として出てきます。

なので、yukisukeの会社では「アンテナを常に3本で!」と合言葉になっています。

記事にあるように、あやちゃんの行動は、こちらの現場でも全く同じで、泣きはしなくても石の様に動かなくなってしまったり、時としてパニックを起こしてしまったりと、体も大きいながらに、行動もダイナミックです。

それにしても、Kei氏の授業受けてみたいなぁと
改めて思いました。

ありがとうございました!
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