聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:15〜17

2019-03-10 18:48:08 | 聖書
2019年3月10日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:15〜17(新共同訳)


 聖書は「あなたがたは・・神の子とする霊を受けた」と言います。
 霊というのは、二つのものを結び合わせる働きをします。霊という言葉は、風とか息とか目に見えないものの動き・働きを表しています。例えば、息・呼吸は、息をしているとき、目に見えるからだと目に見えない精神や心が結び合わされ、命を形作ります。息が止まるとき、命は失われ、体から精神・心が失われてしまいます。このように霊は、二つのものを結び合わせる目に見えない働きをします。
 聖霊は、わたしたちをキリストと神とに結び合わせ、その救いにわたしたちを導き入れます。反対に悪霊は、命の秩序を混乱させ、命を危機へと導きます。

 この霊の働きについて、きょうの箇所では「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語っています。
 奴隷というのは、罪の奴隷のことです。罪に捕らわれ、神に裁かれるのではないかという恐れに捕らわれることを言っています。つまりわたしたちは、裁かれるのを絶えず恐れる罪の奴隷とする霊を受けているのではない、と聖書は告げています。そうではなくてわたしたちが受けたのは、神の子とする霊なのです。

 ここで「神の子とする」と訳されている言葉は「養子縁組」という言葉です。これは、罪ゆえに神との関わりがなくなってしまった者を、聖霊がキリストの救いに与らせ、神のひとり子であるイエス キリストと結び合わせてキリストの兄弟としてくださり、神の子としてくださることを表しています。
 復活したイエスは女性たちに会ったときにこう言っています。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ 28:10)救いの御業を成し遂げられたイエスは、弟子たちに対して「わたしの兄弟たち」と言っています。そして聖霊は、わたしたちをキリストの救いに与らせ、キリストの兄弟としてくださり、わたしたちを神の子としてくださるのです。

 この聖霊によってわたしたちは、父なる神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
 アッバというのは、当時ユダヤ人たちが日常で使っていたアラム語です。そして、小さな子どもが父親に向かって言う言葉が「アッバ」という言葉で、日本語にしたら「父ちゃん」という感じの言葉です。ですから「父なる神さま」というのはアッバから考えると固すぎると言えるかもしれません。「天のお父さま」という言い方も聞きますが、これでも距離感がありすぎるのではないかと思います。本来キリストの救いは、わたしたちに神を「父ちゃん」と呼べる恵みをもたらしたのです。わたしたちは神に向かって「父ちゃん」と言って、神にしがみつくことのできる恵みに入れられているのです。

 そして聖霊が、わたしたちが救いに入れられて神の子どもとなったことを証ししてくださいます。
 イエスは霊についてこう語っています。「霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ 3:6~8)
 わたしたちはしばしば「聖霊を受けている実感がない」などと言います。しかし、神は人間の五感では捉えられない人間・被造物を超えた方です。人は聖霊を受けている実感など感じることはできないのです。
 聖霊の働きを重んじる教派では、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事から異言を語れることが聖霊を受けたしるしだと考える人たちもいます。しかし、わたしは疑問に思います。では、異言を語っていないときは聖霊を受けていなくて、聖霊の導きがないのでしょうか。そうではない、聖書はそうは言っていないとわたしは思います。わたしは異言自体は否定しませんが、異言を語れることが聖霊を受けているしるしと考えることは間違いだと思っています。
 聖書が語っているように、「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)。ですから「イエス キリストはわたしの救い主です」と告白する人は誰でも、聖霊により救いへと入れられているのです。実感で聖霊を捉えようとするのではなく、聖霊が与えてくださったイエス キリストを信じるという奇跡がこの自分に起こったことを通して、神の恵みの御業を知るのです。
 わたしがイエス キリストを信じている、ということはよくよく考えるとおかしなことだと思います。わたしはイエス キリストに会ったことがありません。顔も知りません。声も知りません。握手をしたこともありません。全く知らない人なのに、イエス キリストがわたしの救い主だと信じているのです。理性を捨てた訳ではなく、疑う気持ちを捨てて思い込んでいる訳でもありません。本当に不思議な仕方で「イエス キリストがわたしの救い主である」という信仰が与えられているのです。断食をしたことも、滝に打たれて修行したことも、何時間も座禅を組んだこともありません。そういった修行を通してではなく、不思議な仕方で礼拝を通して信仰が、わたしの場合、キリストの復活を信じる信仰が与えられたのです。ある人は、罪人の中に信仰が与えられるのは、天地創造において神の言葉によって創造の御業がなされた奇跡に匹敵する奇跡である、と言っています。わたしもそう思います。その聖霊による奇跡によって、イエス キリストが救い主であるという信仰を与えられたことによって、わたしは聖霊が注がれ、聖霊が働いてくださったことを確信しているのです。
 ですから、異言が語れない、聖霊を受けている実感がない、わたしは本当に救われているのだろうか、と考える必要はないと思っています。唯一問うとすれば「わたしはイエス キリストを誰だと思っているのか」ということです。イエスが弟子たちに「あなた方はわたしを何者だと言うのか」と問われたように、わたしたちも自らに問うのです。そして「イエス キリストこそわたしの救い主です」と告白するとき、それは聖霊が注がれ、働かれ、わたしたちを信仰へと導いていてくださるしるしです。

 聖霊は、わたしたちに「父よ」と呼びかける祈りを通して、わたしたちの霊を神へと導いていてくださいます。わたしたちの霊がまことの神以外と結び付くことがないように、祈りという大いなる恵みによって神と神の子との絆を育んでくださっています。祈りによって聖霊に導かれ、神とのつながりを育まれ、信仰を育てて頂いているのです。ですから、わたしたちの信仰にとって祈りはとてもとても大事なのです。

 聖霊の働きにより神の子とされた者は、キリストと共同の神の相続人とされます。神の相続人は、神が与えてくださる救いを相続する者です。キリストだけが救いに到達したのですから、救いに至る道をキリストと共に歩むことになります。
 そこにはキリストと共に苦しむことも含まれます。コロサイの信徒への手紙には「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ 1:24)とあります。イエス キリストの地上での苦しみは、既に過ぎ去りました。今のわたしたちの苦しみは、キリストと共にわたしたちが担うべきものとして与えられているものです。わたしたちは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ 6:13)と主の祈りを祈りつつ、また「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とイエスがゲツセマネで祈られた祈りを共に祈りながら、苦しみを担っていくのです。こうしてキリスト共に歩み、キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるのであります。キリストと共に歩む者は、キリストが既に到達されたあの復活、そして神の国に招き入れられることを望み見ることを許されています。キリストの復活、そして天の御国に入れられたことを仰ぎ見て、わたしたちに備えられている神の栄光を知るのです。

 当然、わたしたちは苦しみを避けたいと思います。そしてその時に、自分好みの道を歩もうとしてしまいがちです。そうすると、わたしたちはまたもや神から離れて迷子になってしまいます。
 だから祈りが必要なのです。祈りつつ聖霊に導かれることが必要なのです。聖霊によって、キリストの救いにしっかりと立たせて頂き、神を「アッバ、父よ」と呼び求めながら、神と共に生きるのです。
 聖書は、神と共に生きるという救いの恵みへとわたしたちを招き続けているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊をわたしたちに注ぎ、キリストを信じ、神の子となる恵みを与えられておりますことを感謝します。どうかわたしたちが、聖霊の導きを求めて祈りつつ歩む者とさせてください。救いの道を、キリストと共に苦しみ、そしてついには、キリストと共にその栄光をも受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン