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ヨハネによる福音書 5:18〜21

2020-06-21 22:04:24 | 聖書
2020年6月21日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:18〜21(新共同訳)


 イエスは安息日に病気で苦しむ人を癒やされました。しかしそれは、当時のユダヤ教の律法解釈に反することでした。彼らは、自分たちの教えに反することをするイエスを迫害し始めました。このユダヤ人たちの迫害、嫌がらせに対してイエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とお答えになりました。
 この答えを聞いて、ユダヤ人たちはイエスに対する敵対感情を激化させ、イエスを殺そうと狙うようになりました。それは、イエスがユダヤ人たちの律法解釈、安息日理解を否定して、彼らの権威を傷つけただけでなく、神を「わたしの父」と呼んで、自らを神と等しい者と語ったからでした。
 「わたしの父」という表現は、旧約にもあります。詩編 89:27には「あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩」という神への呼びかけが記されています。ただユダヤ人たちが許せなかったのは、イエスの物言いに、自分と神との関係が特別なものであるという意味合いを感じとったからです。それは間違いではありませんでした。イエスは19節以下でそのことを明らかにされます。

 イエスは言われます。「はっきり言っておく。」ここで「はっきり」と訳されたのは「アーメン、アーメン」という言葉です。アーメンはわたしたちが最もよく使うヘブライ語で、祈りの最後に言われます。このアーメンは「真実です」という意味です。祈りの最後に言うときには「この祈りは真実な願いです。お聞き上げください」という意味で言われます。この箇所のように話の最初に言うときには「これから真実を告げよう」という意味で使われます。
 イエスはここでご自身の真実、救いの御業の真実を告げようと言われたのです。

 19節「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」
 神は自分の父であり、自分は子であることを明らかにされます。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とは、父と子が一心同体であることを示しています。その前の「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」は、自分が神と共にいたことを示します。丁度子どもが父親の側で仕事を見て、仕事のやり方・手順を覚えていくように、イエスは自分が、神と共にあって、その御業を見てきたというのです。
 ここでイエスは「自分からは何事もできない」と言われますが、これは「自分では父の御心以外のこともしたいのだけれども、そうはできない」という意味ではありません。父と子が一体であり、父の御心をなすために子はこの世に来たのだから父の御心以外のことをなすことはない、という意味での「できない」なのです。

 そしてさらにこう言われます。20節「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」父の御心はすべて御子イエス キリストに示されているのです。
 そして父の御心の行き着くところは20~21節「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」父の御心は罪人を死から解放し、復活させ、永遠の命を与えることであり、御子はその父の御心を行うために世に来られたのです。

 しかし、ユダヤ人たちが神を自分の父と呼んだことで、イエスを殺そうと狙うようになったのに、父と一つであることをここまで語ってしまって大丈夫なのでしょうか。
 ここで注意したいのは、19節で「そこで、イエスは彼らに言われた」とあることです。19節から5章の終わりまでイエスの長い話が記されています。この長い話を語った相手「彼ら」とは誰でしょうか。わたしたちは無意識のうちに「彼ら」とは「弟子たち」であろうと考えます。けれどこの「彼ら」はどこから登場するかというと、16節で「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」と言われて、17節で「イエスはお答えになった」とあります。日本語には訳されていませんが、17節には「彼らに」という言葉があって「イエスは彼らにお答えになった」と書かれています。そして18節「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」とあって、これに答えて19節「イエスは彼らに言われた」のです。
 つまり福音書は大きな驚きを覚えながら、イエスを殺そうと狙い始めたユダヤ人たちに対して、天の父と子イエス キリストは一つであるということを語られたとはっきり書いているのです。
 おそらくここには、弟子たちもいたことでしょう。弟子たちもイエスの言葉を聞いて驚いたことでしょう。「ユダヤ人たちに命を狙われているというのに、何と言うことを言うのか」と。しかし弟子たちはその後、イエスの十字架、復活、そして聖霊降臨を経て気づいていくのです。

 しかしなぜイエスは、ユダヤ人たちの敵意に油を注ぐようなことを語られたのでしょうか。それは自分を殺そうとしている人たちにも神の真実を伝え、救おうと願っておられるからです。その場の空気を読んで、ある人には語り、ある人には語らないのではなく、どのようなときにも神の御心に従って語り、業をなすのです。だからイエスは、自分を殺そうと狙っている人たちに対して「アーメン、アーメン」と神の真実を語られたのです。
 ユダヤ人たちが自分を殺そうとすることは承知の上です。イエスは十字架を負うために世に来られたのですから。そして自分を殺そうとしている人たちのためにも十字架を負われたのです。十字架の上でイエスは父に祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23:34)天の父は、イエスを「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)としてお与えくださいました。その父の御心を子であるキリストは、すべて知って、すべてを成し遂げるために人となって世に来られました。

 聖書は言います。「愛には恐れがない」(1ヨハネ 4:18)と。イエスはユダヤ人たちも愛しておられます。だからイエスはユダヤ人を恐れていません。イエスは彼らの救いを願って旧約の成就としてユダヤ人としてお生まれになりました。
 ユダヤ人たちが「救われることを心から願い、彼らのために神に祈って」(ローマ 10:2)いるパウロにとっては、イエスのこの言葉、ユダヤ人に対する姿勢は、慰めであり、希望だったことでしょう。
 このイエス キリストを前にするとき、わたしたちは「救われるのは無理」と諦めなければならない人は一人もいないのです。わたしたちの救いの希望、伝道の業も、このイエス キリストに支えられているのです。だからわたしたちは、自分自身も、愛する者も、わたしたちが覚えるすべての人も、イエス キリストに委ねて大丈夫なのです。イエス キリストこそ、アーメンである方、わたしたちの真実な救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの御業を拒絶し、敵対する者にさえ、救いの真実を語り伝えてくださることを感謝します。あなたの愛と真実の故に、わたしたちは救いを確信することができます。世の終わりまであなたの御言葉を聴き続けることができますように。あなたの言葉であるイエス キリストを仰ぎ、共に歩み続けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン