2020年10月25日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 6:28〜29(新共同訳)
イエスは自分を探してやってきた人たちに言います。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。命は神が与えてくださるもの。永遠の命もまた神が与えてくださいます。人々は、神から命を与えて頂くために、神の御心に適う業は何かと尋ねます。
イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。
わたしたちは毎週「信じます」と告白し、信仰という言葉を当たり前に使います。しかし何故、信じることが神の業なのでしょうか。何故永遠の命を得るのに信じることが求められるのでしょうか。
聖書は「罪によって死が入り込んだ」(ローマ 5:12)と言います。聖書が告げる最初の罪が創世記 3:6~7に記されています。聖書が記す最初の罪は、食べるのを禁じられていた善悪の知識の木の実を(創世記 2:17)食べることでした。
善悪の知識の木の実を食べると、善悪の知識が身に付きます。ただしそれは神の善悪とは違うわたしたち一人ひとりの善悪です。この結果、人は神に従い、神と共に歩むことができなくなりました。神が言われることよりももっと良いと思えること、また神が言われることが自分にとって都合が悪い、良くないと思えることが出てくるようになってしまったからです。
こうして人は、神の許に留まることができなくなってしまいました。人は自分の人生・自分の命を、神から離れ、自分の善悪に従って歩むようになったのです。命の造り主であり、命の源である神から離れていくその先は、死でありました。
聖書はこの神から離れることを罪と言います。信仰がなくても立派な人はいます。尊敬できる人はいます。しかし罪のない人はいません。誰もが死に囚われています。歴史上の偉人であっても、聖人と呼ばれる人であっても、罪がもたらした死に囚われています。神の善悪と全く同じ善悪を持つ人、神の御心と全く同じ思いを持っている人は、一人もいないのです。
人は自分の善悪を持ってしまったが故に、神の言葉を信じられなくなりました。「もっとこうした方がいいじゃないか」「なんでそんなことをしなければならないのか」という思いが常に湧いてきます。個人の自由が尊重される時代になればなるほど「わたしの人生はわたしのもの。わたしの好きに生きる」となって、罪に歯止めがかかりません。
罪によって神が信じられなくなりました。神と共に生きられなくなりました。だから神の救いの御業は、信じることの回復なのです。
信じることは、わたしたちの命に関わることです。もしわたしたちが、何も信じられなくなったとしたら、親も兄弟も友達も、社会も世界も、そして自分自身も信じられなくなったら、生きていくことはできません。
お金も信用できない、お金を預ける金融機関も信じられない、売っている物の値段も信じられないとなったら、わたしたちは社会生活をすることができません。
実にわたしたちが生きていくことの土台には、信じること・信用があるのです。信じることは、わたしたちが生きていくためになくてはならない必要なことの一つです。
それが罪によって壊されてしまいました。噓をつく、だます、裏切るなど信じることを傷つけ、壊してしまうことが罪によって世に入ってきてしまいました。
そのような罪の世で罪を抱えて生きるわたしたちのために、神自らが信じられる存在となって、信じることを回復してくださるのです。
聖書に記された出来事は皆、神は真実であり、神は信じることのできるお方であることを証ししています。そして神は約束の成就として、独り子イエス キリストを救い主として世に遣わしてくださいました。
ヨハネによる福音書は、イエス キリストを神の言葉として紹介します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ 1:1,14)
神の言葉は出来事となります。旧約の出来事、神の約束が、イエス キリストにおいて成就したこと、神の言葉は出来事となることを、ヨハネによる福音書は証ししているのです。だからヨハネによる福音書は、福音書を編纂した目的をこう記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ 20:31)
ヨハネによる福音書、そして聖書は、イエス キリストへの招きの言葉です。イエス キリストに出会い、神の真実を知り、神を信じて生きることへと招いています。信じることを通して、神と共に歩み、永遠の命に生きることへと招いています。
イエスは言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ 20:27)
ハレルヤ
父なる神さま
どうか聖書を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストによりあなたの真実を知ることができますように。どうかあなたを信じることの幸いに与らせてください。キリストを信じ、あなたを信じ、永遠の命に生きる者とさせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 6:28〜29(新共同訳)
イエスは自分を探してやってきた人たちに言います。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。命は神が与えてくださるもの。永遠の命もまた神が与えてくださいます。人々は、神から命を与えて頂くために、神の御心に適う業は何かと尋ねます。
イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。
わたしたちは毎週「信じます」と告白し、信仰という言葉を当たり前に使います。しかし何故、信じることが神の業なのでしょうか。何故永遠の命を得るのに信じることが求められるのでしょうか。
聖書は「罪によって死が入り込んだ」(ローマ 5:12)と言います。聖書が告げる最初の罪が創世記 3:6~7に記されています。聖書が記す最初の罪は、食べるのを禁じられていた善悪の知識の木の実を(創世記 2:17)食べることでした。
善悪の知識の木の実を食べると、善悪の知識が身に付きます。ただしそれは神の善悪とは違うわたしたち一人ひとりの善悪です。この結果、人は神に従い、神と共に歩むことができなくなりました。神が言われることよりももっと良いと思えること、また神が言われることが自分にとって都合が悪い、良くないと思えることが出てくるようになってしまったからです。
こうして人は、神の許に留まることができなくなってしまいました。人は自分の人生・自分の命を、神から離れ、自分の善悪に従って歩むようになったのです。命の造り主であり、命の源である神から離れていくその先は、死でありました。
聖書はこの神から離れることを罪と言います。信仰がなくても立派な人はいます。尊敬できる人はいます。しかし罪のない人はいません。誰もが死に囚われています。歴史上の偉人であっても、聖人と呼ばれる人であっても、罪がもたらした死に囚われています。神の善悪と全く同じ善悪を持つ人、神の御心と全く同じ思いを持っている人は、一人もいないのです。
人は自分の善悪を持ってしまったが故に、神の言葉を信じられなくなりました。「もっとこうした方がいいじゃないか」「なんでそんなことをしなければならないのか」という思いが常に湧いてきます。個人の自由が尊重される時代になればなるほど「わたしの人生はわたしのもの。わたしの好きに生きる」となって、罪に歯止めがかかりません。
罪によって神が信じられなくなりました。神と共に生きられなくなりました。だから神の救いの御業は、信じることの回復なのです。
信じることは、わたしたちの命に関わることです。もしわたしたちが、何も信じられなくなったとしたら、親も兄弟も友達も、社会も世界も、そして自分自身も信じられなくなったら、生きていくことはできません。
お金も信用できない、お金を預ける金融機関も信じられない、売っている物の値段も信じられないとなったら、わたしたちは社会生活をすることができません。
実にわたしたちが生きていくことの土台には、信じること・信用があるのです。信じることは、わたしたちが生きていくためになくてはならない必要なことの一つです。
それが罪によって壊されてしまいました。噓をつく、だます、裏切るなど信じることを傷つけ、壊してしまうことが罪によって世に入ってきてしまいました。
そのような罪の世で罪を抱えて生きるわたしたちのために、神自らが信じられる存在となって、信じることを回復してくださるのです。
聖書に記された出来事は皆、神は真実であり、神は信じることのできるお方であることを証ししています。そして神は約束の成就として、独り子イエス キリストを救い主として世に遣わしてくださいました。
ヨハネによる福音書は、イエス キリストを神の言葉として紹介します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ 1:1,14)
神の言葉は出来事となります。旧約の出来事、神の約束が、イエス キリストにおいて成就したこと、神の言葉は出来事となることを、ヨハネによる福音書は証ししているのです。だからヨハネによる福音書は、福音書を編纂した目的をこう記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ 20:31)
ヨハネによる福音書、そして聖書は、イエス キリストへの招きの言葉です。イエス キリストに出会い、神の真実を知り、神を信じて生きることへと招いています。信じることを通して、神と共に歩み、永遠の命に生きることへと招いています。
イエスは言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ 20:27)
ハレルヤ
父なる神さま
どうか聖書を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストによりあなたの真実を知ることができますように。どうかあなたを信じることの幸いに与らせてください。キリストを信じ、あなたを信じ、永遠の命に生きる者とさせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン